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【熱源な人】ことばとデザインを通して地域と日系ブラジル人の橋渡しをしてきた アルテソリューション代表 平野勇パウロさん

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道なきところへ一歩を踏み出し、自分の道を切り開いた人の心には、ふつふつと湧き立つ熱がある。黙々と働くあの人の中にも静かに宿るその熱が、社会を変え、未来をつくる原動力となる。湯けむりフォーラムでは、群馬において様々な分野で活躍する人々にフォーカスし、その動機や、これまでのストーリーを深掘りして伝えていきます。その人自身が熱源となり、誰かの心を沸き立たせるきっかけとなるように。

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10歳の時に憧れの日本へ

群馬は製造業の比率が高いものづくりの県で、特に東毛は大手製造業の工場が集まっているエリアだ。大泉町に外国人人口が多いことも、ものづくりの工場が集積する地域であることと関連が深い。

ポルトガル語の看板が目立つ県道142号線

国は1990年、人材不足を補うために出入国管理法を改正し、日系3世までとその家族を定住者として認める在留資格を設けた。この法改正により、東毛にはかつてブラジルに渡った日本人移民の子どもたちが続々と来日した。

平野勇パウロさんの父親は、この出稼ぎラッシュよりひと足早い89年に来県し、自動車関連工場で働き始めた。当初は出稼ぎのつもりだったが、日本は治安も良く住みやすかったことから、半年後には平野さんたちを呼び寄せる。

「ブラジルに住んでいた頃から『少年ジャンプ』とか日本の雑誌を買ってもらっていました。日本語は読めなかったのですが、ドラゴンボールのリアルな描写に衝撃を受けたのをよく覚えています」と平野さん

絵を描くことが好きだった平野さんは当時10歳。憧れの日本に対する期待で胸がいっぱいだったという。

平野さんは日系3世。熊本出身の祖父母が移民としてブラジルに渡ってから、家族はずっと日系人コミュニティーの中で暮らしていた。両親も日本人だったので、平野さんも自分を日本人だと思って育った。

「多分、僕が大泉の小学校に編入した初めての日系ブラジル人でした。みんなが教室にバッと見に来たことをよく覚えています。ブラジルから来た子はどんな顔をしてるんだろうって。でも、僕の顔を見て、みんなががっかりして帰っていくのはわかりました(笑)」

平仮名とカタカナしか読めなかった平野さんは、漢字を基礎から習う特別教室をあてがわれ、周りの子から「ガイジン」「ブラジル人」と呼ばれるようになってしまう。

「教科書がちんぷんかんぷんだったんですよ。そこで先生が僕のための特別教室を用意してくれたんです。でも、通常の授業を抜け出して教わっていたので、クラスの子からは、どこかに遊びに行ってるんじゃないかって思われていて、ずいぶん嫌がらせも受けました」

小学生の平野さんは、憧れていた日本で疎外され、アイデンティティを見失う辛い時期を過ごした。

部活で知った日本語の特性

同級生の態度は、中学に入ると軟化した。特別扱いを受けなくなったことが良かったのかもしれない、と平野さんは思った。友だちができると、日本語はみるみる上達したからだ。部活はテニス部に入った。

「中学に入って仲良くなった子に勧められてテニス部に入ったんです。練習も上下関係も厳しくて、1年生だけ球拾いをするとか、初めはその感覚が全然わからなかったんですけど、目上の人に敬語を使うとか、日本語の中にある上下関係をそこで初めて知りました」

学校では教えてくれなかったが、実はこの先輩後輩の関係性をわかっているかどうかが重要なのだと平野さんは悟る。日本社会になじむためには、語学力と同等に年齢や経験年数による上下関係をわきまえ、適切な言葉を選んで使わなくてはいけないのだ、と。

「これは海外の人には非常に理解しづらい日本独特の文化だと思いますが、部活で学んだ先輩後輩の関係は、今の仕事でもすごく役立ってます。日本では言葉と一緒にこの上下関係をきちんと理解してないと仲良くなれない」

町内のブラジル人人口が3000人を超えた90年代半ばになると、スーパーやレストラン、銀行、国際電話の通信会社などポルトガル語が通じる店や企業がひと通りそろい、ブラジル人コミュニティーは完成したが、地元住民との住み分けは一層進み、溝は広がった。

「先輩後輩の関係に象徴されるような日本独特の関係性がわかっていない人と日本人は距離を置きますが、理由も言わないので、ブラジルから来た日系人たちは『ああ、俺たちは嫌われているんだな』と思ってしまう。それは分断の大きな要因としてあったと思います」

言葉の裏にある文化を理解しないと相互理解は難しい、という平野さんの見解は興味深い。日本語に関しても、ものづくりに関しても、それぞれに紐づく心を伝える努力、受け取る努力をお互いがしなければ、交流も共生も表面的なものになるという平野さんの主張には説得力がある。

僕が力になれることは

膠着(こうちゃく)した関係に変化をもたらしたのは2008年のリーマン・ショックだった。

日本の製造業は大打撃を受け、派遣社員の日系人労働者は80%が切り捨てられてしまった。国は翌年、解雇された日系人労働者を対象に、帰国を希望する本人とその家族に支援金を出す事業を打ち出す。

この影響で全国の日系ブラジル人は半減する一方、日本に残る選択をした日系人は、地元住民との交流や共生に関心を向け始めた。

「いつか帰ろうと思っていた人たちは、この支援金でほとんど帰っちゃったんですよ。残った人たちは一生日本で暮らしていく決心をした人が多い。だから大泉のコミュニティーでも地域の日本人ともっと交流したい、共生したいという気持ちが強くなってきたんです」

特に日系人労働者が集まっていた飲食店は、地域の日本人客を呼び込まなければ経営が立ち行かない状況に陥った。日本語とポルトガル語が堪能だった平野さんは、双方を結びつける好機と思い立ち、働いていた商社を辞め、デザイン事務所を開設する。

「困っているお店の力になれないかなと思ったんです。僕が提案したのは、日本語でお店を紹介して日本語表記のメニューも作りますよって。僕は絵が好きだったので、いつかデザインの仕事がしたいと思っていました。きちんと勉強したわけではないので不安はありましたが、他にそういう翻訳作業をやる人はいなかったから、お店の方も僕に頼んでくれて、それでメニューやリーフレットを制作するようになったんです」

平野さんの仕事を広げ、日系ブラジル人コミュニティーと地元の人をつなぐ意味でも重要な役割を果たしたのが、ブラジルの文化と地域の飲食店を紹介したフリーペーパー「ベン・ヴィンド! ブラジル街」(※)だ。ブラジル銀行の支援を得て2009年から2014年まで年4回発行し、毎号約1万5000部を町内の駅やチェーン店などに配布した。

※ポルトガル語でようこその意

2012年冬号の表紙は歌手の小野リサさん

仲間と流暢なポルトガル語で会話する平野さん(バーガーヤで)

平野さんは信頼を得るために丁寧な仕事を心がけた。飲食店紹介ページの掲載料は1枠1万5000円とかなり低価格に設定したが、毎号すべての店主と対面で打ち合わせをして掲載写真や文章を吟味し、売れ筋商品の割引クーポンをつけた。

クーポンには性別や在住市町村、冊子の入手店舗などを書き込む欄がついていて、使われると各店舗のマーケティング資料も集まる仕組みだ

平野さんは使用済みクーポンを回収し、利用者の年代や居住地、フリーペーパーの入手先などの情報を分析し、各店にフィードバックした。実際にこうしたデータをもとにしたPRが日本人の集客にもつながったことから、日系人店主たちも徐々に平野さんの仕事を評価するようになっていった。

また、2014年にサッカーW杯ブラジル大会を控えていたことも、冊子の追い風になった。平野さんがテレビ局や出版社、新聞、大学など、ブラジルに関心がありそうなところに片っ端から郵送すると、さまざまなメディアが記事や番組で取り上げてくれた。メディアの反響は大きく、大泉を訪れる観光客も増えた。

アルテソリューション事務所前で、2人のスタッフと

W杯の熱狂が落ち着き、重要視していたクーポンの回収率が振るわなくなると冊子は休刊になったが、リーマンショック後の危機的な状況下で日系ブラジル人コミュニティーの存在を広くPRし、彼らが経営する店に多くの日本人を集客した功績は大きかった。

平野さんは冊子制作を通して広がった人脈と信頼を活かして町外の印刷物や翻訳、サイト構築などの仕事も広く請け負うようになった。2018年には個人デザイン事務所を「アルテソリューション」に商号変更し、法人化。現在、大半の取引先は冊子で築いた人間関係が土台になっているという。

「ブラジル人コミュニティーとはあえて距離を置いていた時期もありましたけど、僕はフリーペーパーの制作を通じて、日系人のお店の人たちにブラジルのことをたくさん教えてもらったんですよ。それで、ブラジル人ってすごく良い人たちなんだと再発見できた。自分の生い立ちを受け入れられるようになったのも、日系ブラジル人コミュニティーのみんなに自分がブラジル出身だと話して、認めてもらえたことが大きいです」

ブラジルの食を体験しよう

ここまで平野さんの話を聞いてきて感じるのは、やはりお互いを知るために歩み寄ることが多文化共生の大事な第一歩にもなる、ということだ。

大泉町とその周辺で体験できるブラジルのカルチャーは、今では群馬の魅力的な観光資源の一つとなっている。

平野さんは町のブラジル料理店や観光協会のチラシやリーフレットを多く手がけている

まずは「おいしいブラジル料理を食べたい。そんな軽い気持ちで大泉町を訪ねてみるのもありだろうか?」。そう尋ねると平野さんは笑顔でうなずいてくれた。

「間違いないです。食文化に触れることから始めることは、すごく大事です。仕事を通じてではなく、食やスポーツ、音楽、自分の興味のある分野から異文化に近づいていくと会話が生まれ、交流は進んでいくと思います」

ブラジル料理が楽しめる代表的なレストランには、TV「孤独のグルメ」に登場したことでも話題を集めた「レストランブラジル」、シュラスコが食べ放題の「パウリスタ」、また、オプスという倉庫スーパー内のビュッフェレストラン「カサ・ブランカ」などがある(※)。

※平野さんが制作した町観光協会のリーフレットはサイトでも公開されていて、町内の主な多国籍レストラン一覧表も掲載されている。

初心者がまず行くべきと、平野さんが案内してくれたのはブラジルを中心に、中南米やアジア各国の珍しい食材がそろう「スーパータカラ」だ。

ポルトガル語が飛び交うスーパータカラ。店先の黄色い車はブラジル銀行の出張所
店内は日系ブラジル人が日常的に食べる豆や肉、パン、お菓子、生活用品やアジア各国の食材などがずらり陳列されている

平野さんが店内の商品を紹介してくれた。まずはシュラスコ大好きなブラジル人が非常にこだわりを持って買うという肉のコーナー。さまざまな部位の塊肉や大きなソーセージなどが並んでいる。

「イチボ(牛のお尻の辺りの肉)を僕は特にお薦めします。これは焼いて塩を振って食べるだけですごくおいしい。売り場の人に頼むと塊肉も食べやすいように筋膜や余計な筋を丁寧にカットしてくれるので、ぜひ一度頼んでみてください」

また、豆のコーナーはいろんな乾燥豆が。代表的なブラジル料理「フェイジョアーダ」に使うのは黒豆。かつて奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人たちが、農場主が食べない豚の耳や鼻など残りの部位と黒豆を煮込んだのが起源とされるが、今では特別な日に食べる料理に昇格しているそうだ。

(左上から時計回りに)ブラジルの代表的料理「フェイジョアーダ」の缶詰。右上は肉売り場。1キロ以上のボリュームある塊肉だらけで目を見張る。右下は乾燥豆のコーナー。ベージュのインゲン豆と黒インゲン豆。ブラジル人はたくさん豆を食べるが、日常的に食べるのはベージュ色の方だそう。左下はブラジルの三角錐型コロッケ「コシーニャ」

外国人技術研修生制度導入後、日系ブラジル人とは違う在留資格の外国人も、大泉にはたくさんやってきている。多国籍な町内では、ブラジル料理を中心にネパールやベトナムやインドネシア、トルコ、パキスタンなど様々な国の料理が味わえる

町観光協会では、日系ブラジル人ガイドとショッピングやレストランの食事を楽しむツアーなども予約できるという。やはり平野さんのようなガイドがいると、ブラジル文化への理解も深まるので、お勧めしたい。他にも全国に先駆けて多文化共生都市を目指す大泉の取り組みを聞ける講座の開催や、サンバ出張サービスなども随時受けつけているそうだ。平野さんも「ぜひ多くの人に大泉を訪れてほしい」と呼びかける。

ライター:岩井光子  撮影:市根井直規

登壇者

平野勇パウロ アルテソリューション代表

ブラジル・サンパウロ州生まれ。10歳の時に家族と共に来日。京都外国語大学ポルトガル語学科卒業後、ブラジル製品を扱う商社で輸入業務に従事。2009年に平野デザイン事務所設立し、2014年までブラジルを紹介するフリーペーパー「ベン・ヴィンド! ブラジル街」を発行。現在はチラシ、カタログ制作など広告デザインを始め、ホームページ制作・運営、多言語翻訳など多岐に渡る事業を手がける。2018年に個人事務所を法人化し、アルテソリューションに商号変更。メディア出演、講演も多数。