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館林紬を未来に紡ぐビジネスを実行する起業家 紬・組代表 飯塚はる香さん

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大学時代からアジアやアフリカ方面を旅して回り、途上国支援を仕事にしたいとバングラデシュでアパレルブランドを起業した館林市出身の飯塚はる香さん。細分化された服作りのサプライチェーンの中で労働者が搾取されない仕組みを作ろうと奮闘してきた。その飯塚さんが館林で消えゆく紬の存在を知り、仲間と3人で合同会社「紬・組」を設立したのが2023年のこと。世界を飛び回りながら、地元の伝統織物の再興プロジェクトにも関わり始めたのはなぜなのか。彼女のこれまでの歩みと思いを聞いた。

アパレル業界を変えたい

取材日も1週間ほど前までタイにいたそうだ。「私、夏が大好きなので、冬の間は南の国に逃げます。花粉症がひどいので、春も逃げますね」、そう言って人懐こく笑う。

飯塚はる香さんはバングラデシュ、カンボジア、そして、群馬の館林と、世界3つの拠点を行き来しながら、アパレル、コスメ、ツアー企画、マーケティングなどさまざまなビジネスを営む起業家だ。

大学時代からこれまで、アジア、中東、アフリカの50カ国以上を旅してきた。「基本的にパスポートさえあれば、大丈夫」が旅の信条。世界で見聞きし、吸収したことが、飯塚さんのバイタリティーの源だ。「ビジネスのアイデアも、旅の最中にふっと思いつくことが多いんです」

実家は東北自動車道ICに近い館林市郊外。米とイチゴを育てる農家だ。「周りにコンビニも自販機もないようなところです(笑)。農家ってあんまり旅行に行けないんですよ。毎日農作物を見なければいけないから、何日も家を空けられないんです」

作業の手伝いに忙しい中での受験勉強だったが、都内の大学に合格。都内で一人暮らしを始めた。「自由を実感して、パスポートを取ったが最後、もう糸の切れた凧のようになっちゃって(笑)」

最初に行った国はフィリピンだ。大学が提携していたインターンシップ制度を利用して現地の教育機関で2カ月ほど働き、子どもや学生たちと触れ合った。

「大学で開発学は学んでいましたが、フィリピンに行って自分がいわゆる“意識高い系の海外かぶれ”だったことに気づきました。ずっと机上で勉強はしていたけど、実際に行ってみて、『あ、本当に起きている』と。しかも、他人事に思えなかったんですよ」

逆境でも前向きに生きる途上国の人たちの魅力にどっぷりハマり、時間が許せば、アジア・アフリカ方面を旅するようになった。

就職活動が迫ると、進路に悩んだ。国際協力を仕事にしたいと思ったが、支援に活かせる資格や技術は持ち合わせていない。どんな分野なら関われるだろうかと思案していた頃、ネットで流れてきた国際ニュースに目を留めた。

それが2013年、バングラデシュの商業ビル、ラナ・プラザで千人以上が犠牲となった崩落事故だ。安全対策が不十分なビルで女性たちが昼夜ミシンを踏み続けたことで壁の亀裂が広がり、ビルが突然崩れ落ちた。グローバルブランドの服の安値の裏には、人権搾取があることが明るみに出たショッキングな事件だった。

「その記事をパッと見た時に、『あ! 私、これに一生関わる!』って、謎の直感がピピピッてあったんです」、飯塚さんはそんな表現をする。アパレル業界を変えるため、あえてアパレル業界に乗り込もうと決意した瞬間だった。

卒業後はユニクロ(ファーストリテイリング)に入社。退職後、ZARA(インディテックス)を経て日系アパレル企業のカンボジア駐在員に。店舗運営や品質管理などサプライチェーンの流れを学んで2020年、バングラデシュに移住して立ち上げたのが、プライベートブランド「banesh(バネッシュ)」だ。ブランド名には生産者とエンドユーザーをつなげたいという願いを込めた。

「Bangladeshの間には、喜びという意味の“glad”が入っています。その前のbanと後ろのeshをガチャンとつなげた造語がbanesh。先頭の消費者と後ろの生産者をつなげることが、私のやりたいことなので」

「baneshの商品は、脱・大量生産、大量廃棄を目指して生産数を抑え、丁寧なモノづくりを目指しています。労働力を安く買いたたくようなことは絶対にしないし、届けた先のお客さまのアフターケアまでやっているとスタッフには繰り返し伝えているので、少しずつわかってくれるようになってきたかなと感じています」

館林紬の危機を知って

banesh はECサイト販売が主力で、実店舗を持たないブランドだ。バングラデシュでエシカルな生産ラインの構築に奮闘していることを知ってもらおうと、ライブ配信やクラウドファンディングも試みた。2021年には日本各地で移動販売を実施。baneshが目指すものに共感してくれる支援コミュニティを増やす活動に力を入れてきた。

人脈が広がる中、ひょんなことから館林紬(つむぎ)の存在を知ったのは、2023年のことだった。

「地元にあったんだって! 私、全く知らなくて」

バングラデシュの伝統織物を使った新商品もプロデュースしていたが、まさか自分の出身地に風前の灯の伝統織物があったとは——。

気になって調べると、千年近い歴史はあるが、生産は15年ほど前に途絶えていた。市内には山岸織物という業者が一軒だけ残っていて、在庫の反物を加工して細々と着物やシャツ、小物などに仕立てていた。

「もともとシルクで作られていましたが、戦後、産業構造が変わった時に原料をスッと木綿に差し替えた。城下町だった館林には反骨精神と共に、時代にまかせて流れていくようなところもあって、館林紬がまさにそうなんです。紬というと、大島紬とかシルクの高級な着物をイメージすると思うんですけど、館林紬は木綿だから丈夫で、ガシガシ洗えて、農作業にも適した日常着でした」

ビザなどの更新手続きで一時帰国したタイミングで館林にも立ち寄り、館林紬を残す活動をしているメンバーと会って話をした。

それが、半年後にはビジネスパートナーとなる安楽岡紀子さんと中村喬さんだ。安楽岡さんは館林駅前でビジネスホテルを経営する実業家で、父親は2017年に亡くなるまで館林市長を務めていた。地元の由緒ある家柄で、交友関係も広い。一方、中村さんは建築士。実家はまちなかのテイラーで、布地に親しんで育った人だ。館林の文化の変遷にも明るい。

安楽岡紀子さん

「反物を扱う山岸織物さんと安楽岡家は代々家族同士のつながりもあって、山岸さん所有の築100年近い和風家屋を館林紬の発信拠点にする話も進んでいました。あれよあれよという間に私も巻き込んでいただいて、3人で事業を法人化することになりました」

自身の会社経営も多忙な中、迷いはなかったか尋ねると、「全然なかったです。気づいたら定款書いていました(笑)。千年の歴史があるものを目の前でなくすわけにいかないという使命感ですね。これまたバングラの時と同じ、謎の使命感にかられました(笑)。立派な先輩方が一緒にいてくださるし、条件が整っていると思ったんですよ。『やる』の一択しかなかったです」

紬・組が交流拠点としてリノベーションを進める「ツムギトエンガワ」。山岸織物の山岸さんが事務所や倉庫として使っていたが、長く使われていなかった
冬の柔らかな日差しが差し込む「ツムギトエンガワ」。今後、窓の外に縁側をDIYし、訪れた人たちがお茶を飲みながらゆっくり過ごせるスペースを作る。資金はクラウドファンディングで募る予定だ

3人で設立した合同会社「紬・組」が最初の目標に掲げるのは、館林紬を再び生産する体制を作ることだが、こちらは織都・桐生の力添えもあり、順調に進んでいる。

「桐生の県繊維工業試験場に現物の布を持っていくと分解して、糸の種類や太さなどを調べてもらえるんです。もう一度織るためのレシピもあって、サンプルは桐生絹織という会社にお願いしています。そこの方たちは普段から機(はた)織りをしていて、機織機を修理できる職人さんもいて、『糸へんのつくことならまかせて』と言っていただきました。実は今日、これからサンプルが届く予定なので、ドキドキです!」

紬・組は布の生産再開を見据えて、既に動き始めている。

「今から『皆さん、着物を着ましょう!』と呼びかけても、めちゃくちゃ難しい。そうではない形で今の世の中に流通させるためには、何が必要か、といった観点で戦略を考えています。まずは(館林紬の)認知を獲得する。そうしたら、どんなところに需要があるかを探っていきます」

布の現物がなくても、認知を拡大することはできる。そこから、布をデータ化するアイデアが生まれた。データを活用して衣食住全般に商品展開できれば、認知獲得の可能性は大きく広がる。温故知新ではなく、館林紬の新しい章をこれから作るのだという意気込みが、全国によくある伝統織物の再興プロジェクトとは一線を画す戦略につながった。

紬・組が山岸織物の在庫の中から選び、プロジェクトのフラッグに採用した縞模様の布「日々凛」

まず、館林紬の中から3人でプロジェクトの象徴に良いと選んだモダンな印象の縞模様をデータ化し、中村さんが色をブランディングしていった。

例えば、上の写真の縞模様の右から4番目の濃いピンクは、「宙立紅(ちゅうりつこう)」。館林と言えば花山公園のツツジが有名だが、園内を散策中に辺り一面ツツジの花に囲まれる場面をイメージして名づけた。また、右から2番目の青緑は里を流れる市内の鶴田川を、黄は特産である小麦の麦秋の風景をそれぞれイメージして「里流翠(さとるすい)」「陽野眩(ひのまひる)」などと名づけ、各色から館林の風景や歴史が想起できる仕掛けを演出した。

紬・組のこうしたコンセプトメイキングが地元紙に取り上げられると、企業や自治体の方から続々とコラボの相談が舞い込むようになった。

左はアサヒ飲料とのコラボで作ったコースター。真ん中は館林に本社を構える正田醤油の飴。

最初にアプローチがあったのは、市内にカルピスの工場があり、ミュージアムも運営しているアサヒ飲料だ。話はすぐにまとまり、オリジナルコースターやイベント用の社員Tシャツを作った。

こうしたコラボプロジェクトはアパレル出身の飯塚さんより、ペーパークラフトなど、ものづくりを得意とする安楽岡さんが製作指揮をとっている。その場合、飯塚さんはマーケティング立案や広報対応に回るなど、三者三様、生業や得意分野を活かして役割分担しながら、市や地元企業、学校などと次々と協働実績を築いてきた。

右は、手ぬぐい専門店「かまわぬ」とコラボした手ぬぐい。Tシャツやノート、ネクタイ、トートバッグなどさまざまなグッズを製作してきた

世界を行き来して見えるもの

コラボの効果もあり、市内で館林紬の認知は広がってきたが、飯塚さんはようやくスタート地点に立ったという認識だ。

「私たちは、実は館林紬の再興に限らず、日本の伝統織物という大きな横軸でやっていこうとしています。これを一つの成功事例として提示しながら他の伝統織物の産地にも『一緒にやりませんか』と参加を呼びかけ始めています」

例えば、お隣である邑楽郡(旧中野村)の中野絣や茨城の結城紬、福岡の博多織などの関係者に既に声をかけているそうだ。「ジャパニーズ・トラディショナル・ファブリック(日本の伝統織物)というチームで売り出して行きたくて、国外に出していく動きを今始めているところですね」

構想は壮大だ。ここで海外とのパイプもある飯塚さんの力が発揮される。

「私は国外に出る機会が多いので、いろんなところで営業しています。例えば、ひとつの卸先はニューヨークにあって、ECモールに出店しながらテストマーケティングをしています。どんな商品が受けて、これからどういったものを作っていくか、価格帯をどの辺にしようかなどを探っている段階です」

もはや紬を服に仕立てて売ることはあまり考えていないという。可能性を探っているのは「装飾品だったり、インテリアだったり。人と場所を選ばない商品です。画廊を経営する知人に美術品として展示してもらって反応をみたりもしています」

インタビューは駅前のコワーキングスペース「エンジン」で行った。館林紬に新しい風を吹き込む飯塚さんはまさに紬・組の“エンジン”だ

着物文化の愛好者からは、「こんなの館林紬じゃない」と批判を受けることもあるそうだ。しかし、ノスタルジーでは再興できないからこそ、今、存亡の危機にある。時代と共に需要は変わり、ビジネスは事業転換を迫られるものだ。

「私たちがなぜ法人化したかというと、ビジネスでやりたいんですよ。でないと続かない。先人がいろんな工夫をしながら千年続けてきたものを、その先の千年につなぐためにも館林紬をただ懐かしむのでなく、“生かす”という感覚を大事にしたい」

baneshが生産者と消費者を結びつけたように、紬・組では館林と日本の織物産地、そして、世界をつなげようとしている。

「私、農家出身なので、生産者が真横にいる環境で育ちましたから。やっぱりつながった方がみんなハッピーだと思うので」

高校卒業後は反発して館林を出たが、運命は不思議なもので、今はその館林にも拠点を構えて2年になる。世界を見て回って比較対象ができた分、心境の変化があったのか、故郷の良さに気づく自分もいる。「まだ、めちゃめちゃ葛藤している部分はありますが(笑)」

多拠点生活が性に合っているという飯塚さん。現場を大切に考えるフットワークの軽さと、現状を俯瞰する視点と。世界を行ったり来たりする中で見えてくるものが、相互に良いシナジーを生み、背中を押してくれているという。

登壇者

飯塚はる香 紬・組代表

館林市生まれ。太田女子高卒。大学在学中にフィリピンやケニアなど数カ国で教育や開発分野のインターンを経験。バックパッカーとしてアジアやアフリカを中心に50カ国以上を旅する。卒業後は国際協力分野での起業を志しつつ、ユニクロ(ファーストリテイリング)、ZARA(インディテックス)で店舗運営を3年ほど学ぶ。日系アパレル企業に転職し、カンボジア工場で品質管理を担当。バングラデシュに移住し、2020年に「banesh」を設立。バングラデシュでは日本企業向けのOEM(相手先ブランド製造)生産も行っており、カンボジアでもコスメ事業や旅行企画を請け負っている。2023年、館林紬が存亡の危機にあると知り、合同会社「紬・組」の設立に参加。