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【じょうもう今昔物語】館林を世界に誇る「食品の街」に。農業ベンチャー「ジャングルデリバリー」社長の三田英彦さん【湯けむりフォーラム×上毛新聞】

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 1887(明治20)年の創刊以来、群馬県内のニュースを伝え続けてきた地元紙「上毛新聞」。約135年分の歴史が詰まった紙面のデジタルアーカイブをひも解けば、街の過去と人のつながり、先人たちの思いが見えてくる。

 今回は「まちづくりの先達」をテーマに、各地の街づくりをけん引してきた3人を過去記事とともに紹介していく。

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Contents

・「街がつまらないなら、面白くしてみろ」
・下町夜市で生まれた、人のつながり
・創業支援の思いを受け継ぐ
・世界に誇る「フードバレー」へ

 

 群馬県の南東部、関東平野のほぼ中心に位置する館林市。市内には多々良沼や城沼といった「里沼」が点在し、豊かな水資源と、その恵みを生かした食文化が根付く。 この町に「はなさかじいさん」と呼ばれる起業家がいる。文具専門店「三田三昭堂」の3代目と、農業ベンチャー企業「ジャングルデリバリー」の創業者、二足のわらじで活躍する三田英彦さん(58)=館林市本町=だ。

老舗文具店と農業ベンチャーを経営する三田さん。館林の気候に合ったオリーブ栽培で館林を盛り上げようと奮闘している=東武館林駅西口広場

 「三田三昭堂」は1928(昭和3)年創業の老舗文具店で、館林市街の下町通り商店街に店を構える。県内企業と共同開発した万年筆や、江戸切子模様の瓶に入った香り付きインクなどオリジナルブランドを展開し、国内をはじめ中国やシンガポールなど海外でも人気を博している。この成功体験から、三田さんは「オリジナリティをとがらせれば、地方発のプロダクトでも世界と勝負できる」と実感したという。

 館林の気候に合ったオリーブに目をつけ、2017年に農業ベンチャー「ジャングルデリバリー」を起業。翌年には約2ヘクタールの耕作放棄地でオリーブの有機栽培を始めた。収穫した実はオイルや化粧品に加工して販売し、文具と同様に海外販路の拡大を目指している。

耕作放棄地をオリーブの森に―。ジャングルデリバリーが、クラウドファンディングで地元産オリーブの製品販売を始めることを伝える記事(2022年2月3日付)

 三田さんは1995年に大手電機メーカーを辞めて、婚家の家業だった「三田三昭堂」の社長に就任した。「文具専門店の景気が良かったのは当時まで。その後は、ネット販売や100円ショップの台頭もあり、現在までに全国の8割近くが廃業している」

 店舗のある下町通りは、文房具店以外にも野菜や精肉、電化製品を扱う店が並び、生活に必要なものは一通りそろう商店街だった。だが郊外に大型店が進出すると、街で買い物する人が減り、人通りが目に見えて少なくなった。

 もうからないから、子供は店を継がないし、親も継ぐことを望まない―。後継者不在や高齢化を理由に廃業する店が増え、この頃から商店街の空き店舗対策が全国共通の課題となっていく。

館林市下町通り商店街にある「三田三昭堂」=館林市本町

 「いつ入荷するか、いくらなのか。価格や納期だけで勝負する従来の商売では、いずれ限界がくると感じた」。地方の文具店がグローバル化する市場とどう戦うのか―。試行錯誤の末、たどり着いたのが、イタリア式のものづくりだった。

 「イタリアのブランド戦略から学ぶことが多い。有名ブランドの多くは、実は地方都市にあり、産地の歴史と密接に結びついている。特にワインは風土を生かした産業の好例。自分たちの土地でしかできないものをつくり、輸出で外貨をかせぎ、地域に還元する。文房具もオリーブも、このビジネスモデルをお手本にしている」

「街がつまらないなら、面白くしてみろ」

 館林発のグローバルビジネスに挑む三田さん。商店主として街に関わり始めた頃は「刺激が少なく、面白くない街だなと思った」と明かす。酒席でそんな本音を漏らすと、先輩商店主に「街がつまらないのは、お前自身がつまらないからだ」と喝破された。続けた「だったら、お前が面白くしてみろ」という言葉で目が覚めた。

 「もうからない、つまらない。ぐちってばかりの親父を見て、息子はどう思うか。かっこ悪いし『ああはなりたくない』と思われるに決まってる。いつか息子が親父の跡を継ぎたい、館林で働きたい、と思えるように、自分が動いて変えようと決めた」

商店街活性化に向けた取り組みを伝える記事。三田さんは下町企画委員会の委員長として、当時から「チャレンジショップ」などを構想していた(2000年5月31日付)

 結婚を機に住み始めた館林市になじもうと、30代でPTAや消防団など12団体に所属。中でも青年会議所(JC)活動に力を入れた。2000年ごろには日本青年会議所(JC)の「まちなか創造推進委員会」に参加し、日本政策投資銀行の藻谷浩介さんと出会う。

 藻谷さんは「里山資本主義」や「デフレの正体」などの著書で知られる地域エコノミストで、当時は同委員会の年間アドバイザーを務めていた。三田さんは日本JCの事業として、藻谷さんの講演会を全国の自治体で仕掛け、「カバン持ち」のごとくついて回ったという。

館林市街地の活性化をテーマに講演する藻谷さん。館林青年会議所などが講師として招き、市内でもたびたび講演を行った(2005年3月17日付)

 藻谷さんとの会話で印象に残っている言葉がある。「街の中にいる人は価値に気付かない、外部から評価されて初めて価値を知る」。

 地域の価値を発見し、磨いていくには「外からの視点」が大切。ならば街中に人を集めるにはどうすればいいのか。三田さんが尋ねると、藻谷さんは「市を立ててると人が来るよ」とアドバイスした。

 「織田信長の楽市楽座ではないけれど、街中に市ができれば、人が交流し、物や情報が集まる。テント一つ立てれば、そこが市になるし、予算もさしてかからない。商店街活性化の最善策だと思い立ち、下町通りで『夜市』の開催を決めた」(三田さん)

下町通り商店街振興組合が毎月第3土曜日に「下町夜市」を開催することを伝える記事(2004年8月26日付)

下町夜市で生まれた、人のつながり

 第1回の下町夜市は2004年10月16日に開催された。当日の開催風景について、上毛新聞はこう報じている。

 「十月十六日午後六時。関係者の期待と不安が入り混じる中、初めての夜市が幕を開けた。精肉店や金物店など既存の商店が営業時間を延長して参加したり、エスニック料理や紅茶などを扱う公募出店者の露店が約二十店軒を連ねた。店舗跡に作られた広場では手品やチェロのコンサートが行われ、射的やトランポリンなど子供が楽しめる空間も。地元の人を中心に二千四百人が足を運び、終始にぎわいを見せた。」

下町夜市のスタートを特集した記事。商店街主体で低予算ではじめ、にぎわいが生まれた様子を伝えている(2004年12月14日付)

 幸先の良いスタートを切った下町夜市は、館林市中心街の夜を楽しむイベントとして市民に定着していった。夜市の50回開催を紹介する記事では、イベントに延べ6万人以上が訪れ、隣県の佐野市からも出店するようになったと伝えている。

下町夜市の開催50回を特集した記事。イベントをきかっけに、人のつながりが広がっていると紹介した(2008年12月18日付)

 市民主体の夜市を支えたのは「人のつながり」だった。同じ記事には、出店者側の声として「人出が天候に左右されるため、出店常連者は『そろばん勘定だけじゃ長続きしない』と口をそろえる。支えているのは人のつながりだ」と記されている。

 三田さんも記事内のコメントで「外野だけでなく身内からも、どうせすぐ終わるんでしょ、と言われていた」とスタート当初を振り返りつつ、「参加者の熱意で夜市が定着するにつれ『場所や電気、トイレを使っていいよ』と、地元商店のバックアップも得られるようになった」と手応えを語っている。

下町夜市のチラシ。出店だけでなくコンサートやダンス発表会などさまざまなイベントが企画されていた

 夜市の出店をきっかけに、実際に店舗を開業したり、組合に所属する店も出てきた。2009年には市街地活性化への貢献が評価され、下町通り商店街は中小企業庁が全国77カ所の商店街を紹介した「新・がんばる商店街77選」に、群馬県で初めて選ばれた。

 2013年4月には目標だった100回を祝うイベントを開き、約1万人が訪れる盛況ぶり。夜市への評価と期待は、回を重ねるごとに高まっていった。

夜市が開催100回を迎えることを伝える記事。寒い時期でもにぎわうのは「志のある人が集まる〝志縁〟でなりたっているため」という三田さんのコメントが掲載されている(2013年03月16日)

創業支援の思いを受け継ぐ

  一方で課題となったのが、実行委員会の弱体化だ。100回開催を伝える記事にも「夜市の運営状態は厳しく、ボランティアや市職員らの支援が欠かせない」とある。始めた当初から応援してくれた先輩店主も廃業したり、亡くなったりして、10人いた運営メンバーも最後は2、3人に。歩道上の行列をコントロールしたり、強風時の対策をしたりと、安全対策にまで手が回らなくなり、最終的には夜市の中止を決断した。

 「来場者は増えていくのに、一緒に動く関係者は増えないまま。運営の負担だけが大きくなった。夜市の出店をきっかけに商店街で起業する人がいても数組にとどまり、インパクトは小さい。良いイベントだったとは思うが、持続可能な形にできず終わってしまったのは残念」

下町夜市が12月15日の第154回を最後に終了することを伝える記事。地元商店主の高齢化や廃業で担い手不足になり、継続が難しくなった背景を伝えている(2018年12月13日付)

 夜市の終了を報じた記事は、後継企画として東武館林駅西口駅前の野外マーケットの計画を伝えている。夜市の思いを絶やすまいと動いたのは、館林青年会議所で三田さんと行動を共にした八木橋洋介さん(44)だった。

 イベント名は「Tatebayashi West Farm Market(タテバヤシ ウエスト ファーム マーケット)」。下町夜市が掲げた創業支援の流れをくみ、西口のマルシェで店舗運営の練習を積み、東口の中心市街地で起業してもらう構想を描く。記事の中でも、八木橋さんは「下町夜市のノウハウを継承しながら、交流人口が増え、長く続くものにしていきたい」と意欲を語っている。

「タテバヤシ ウエスト ファーム マーケット」が開催される東武館林駅西口駅前広場。インタビューに答える三田さん(右)と八木橋さん

 2019年4月の第1回を皮切りに、夜市と同じように毎月第3土曜日に開催。出店希望者は60店まで増え、常時約15店が出店し、多い時は500人程度の来場がある。

 八木橋さんが目指すのは「若い世代に魅力ある町」だ。「館林は自然豊かで住みやすい。起業支援で雇用を生み、イベントを通じて面白い街の雰囲気をつくれば、若い人が集まってくるはず。マーケットがその一助となればうれしい」と意気込む。

「第1回Tatebayashi West Farm Market」の開催を伝える記事。夜市が目指した創業支援の要素も取り入れた後継イベントとして人気を集めている(2019年4月28日付)

世界に誇る「フードバレー」へ

 それでも、夜市の終了は三田さんにとって〝挫折〟だった。「商店街で完結していた14年間では何もできなかった。その無力さを、夜市の終了で強く感じた。商店街の活性化にとどまらず、持続可能な地域社会をどうつくるか、視点を広げる必要があった」

 館林の「外」へ出て学ぼうと、起業家の発掘や育成を目的とした「群馬イノベーションスクール」(GIS、田中仁財団主宰)に参加。起業家発掘プロジェクト「群馬イノベーションアワード(GIA)」にも出場し、季節ごとに多品種の樹木をシェアするサービス「IoT樹木鉢」を提案してイノベーション部門の入賞を果たした。

 GIS講師で早稲田大学ビジネススクールの長谷川博和教授との出会いも転機となり、54歳で同スクールに入学。商店街衰退の要因ともいえる事業承継について学び、自分より若い同級生と議論を交わして、ジャングルデリバリーのビジネスモデルを磨いた。「GISやビジネススクールで人脈や視野が広がったからこそ、今のジャングルデリバリーがある。町の外で得た知識や人脈を地元に還元することで、新しい風を吹かせるのが、これからの役割だと思う」

GIAの入賞を機に、東武館林駅西口広場で「IoT植木鉢」の実証実験が行われた。広場に植えられたオリーブも三田さんらが管理している(2018年1月11日付)

 まちづくりから農業へ、手法は変わっても館林を良い町にしたいという思いは変わらない。目標は2027年までに、群馬県内の200ヘクタールに8万本のオリーブを植えること。「実現すれば、香川県を抜いて群馬県が日本一のオリーブ産地になれる。オリーブは栽培するだけじゃない。実を絞ってオリーブオイルにしたり、葉をお茶に加工したり。ユズやウメなどの日本らしいフレーバーで『ジャパンオリーブ』のブランドを築き、館林に還元していきたい。出口を考えてから木を植える手法は、農家ではない商人(あきんど)だからできる発想だと思う」

館林産のオリーブオイルやオリーブ茶の楽しみ方を紹介する展示会「オリーブフェスタ」の様子を伝える記事(2023年1月18日付)

 「良質な水に恵まれた館林は『食の都市』として高いポテンシャルがある。正田醤油や日清製粉グループ、ブルドックソースなど大手食品メーカーの工場が集積しているのも、その証だろう。オリーブ産業を皮切りに食にまつわるアントレプレナーを呼び込み、館林を世界に誇る『フードバレー』にしていきたい。起業への環境が整っている今こそ、若い人たちには自分と一緒に、ここ館林から世界を狙って挑戦してほしい」

取材日:2023年1月11日
制作:上毛新聞社 
執筆者:上毛新聞社営業局デジタル営業部 和田早紀