【熱源な人】世界に誇れる片品の自然を舞台に、大会のプロデュースも行うスカイランナー、星野和昭さん

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道なきところへ一歩を踏み出し、自分の道を切り開いた人の心には、ふつふつと沸き立つ熱がある。黙々と働くあの人の中にも静かに宿るその熱が、社会を変え、未来をつくる原動力となる。湯けむりフォーラムでは、群馬において様々な分野で活躍する人々にフォーカスし、その動機や、これまでのストーリーを深掘りして伝えていきます。その人自身が熱源となり、誰かの心を沸き立たせるきっかけとなるように。

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スカイランナーと名乗る人に片品で初めて出会った。ギリシャ神話に出てくるような“空を走る人”とは、スカイランニングを専門にするランナーのことだ。星野和昭さんは2016年には世界選手権日本代表になったスカイランニングの現役アスリートであり、地元の片品で大会を企画するプロデューサーでもある。スカイランニングと地域活性を結びつけた「スカイランニング・ツーリズム」を片品に根付かせようと奮闘する星野さんに話を聞いた。

箱根駅伝の山登りに憧れて

スカイランニングは、トレイルランニングと同様に山を走る競技だが、走る方向に違いがあるという。未舗装の山道(トレイル)を横に走るトレイルランニングに対し、スカイランニングは山を縦に駆け登る。山頂を目指すことが、“空に向かって走るランナー”と呼ばれるゆえんだ。

実は、スカイランニングは昔から自然発生的に世界各国にあった競技で、日本でも最古のレースは1913年の富士登山競走にさかのぼる。こうした山を駆け登る競争を1992年、イタリアの登山家マリーノ・ジャコメッティが「スカイランニング」と定義し、1998年に同国で初の世界選手権が開催された。日本に協会ができたのが2013年。星野さんはその黎明期にスカイランニングを始めた。

山を駆け登ることが楽しい−。この感覚はどんな環境で培われたのだろうと、星野さんが活動の拠点を置く片品の武尊根BASEを訪れた。

森のようちえんやキャンプサイト、多世代交流事業などを行うNPO法人武尊根BASEの拠点、旧武尊小学校の一室に事務所はあった

片品村には3つの谷があるが、星野さんは最も大きな谷の最奥に当たる土出(つちいで)の出身。武尊山に続く花咲谷は、スイスのマッターホルンを望むツェルマットをほうふつさせる谷底だ。このダイナミックな環境で星野さんは優れた脚筋力とバランス感覚を養った。

「谷底だから日が昇るのが遅くて、沈むのが早いんですよ。自宅から片品北小までは高低差もあって、行き帰りで6kmくらいありました。土出でも最長距離を歩いていた子どもだったと思います。坂の登り降りは日常でしたし、小さい頃から平坦な道より、起伏のあるところを走ることがすごく好きでした」

スキー競技が盛んな片品では、誰もが子どもの頃からアルペンスキーやクロスカントリースキーに親しむ環境がある。クロスカントリーで県内トップクラスだった星野さんは将来を有望視されたが、高校では陸上をやりたいと主張して両親や周りを驚かせた。山登りが大好きだった星野さんは“下る”スキーより、登りが華として扱われる箱根駅伝に憧れた。

箱根初出場に向けて力を蓄えつつあった國學院大学に進学し、夢はすぐそこまで近づいたが、当時の森田桂監督が指名した区間は意外にも下りの6区。星野さんは登りも速かったが、下りのスピードが抜群で恐怖心もないことから、監督は下りの適性を見込んだ。

スキーでは時速100kmを超える急斜面の直滑降も全然平気で、ケガをしたこともなかったそう。「周りからは“ネジが飛んでいる”を越えて“ネジがない”と言われていました」、星野さんはそう言って笑う

在学中に國學院は2度の箱根駅伝出場を果たしたが、1年次は大会直前に体調を崩し、3年の時はレギュラーの座を争った新入生に敗れた。星野さんはあと一歩のところで走るチャンスをつかめなかった。ひたすら追い続けてきた目標を失った星野さんは、「自分の思い描いていたアスリート人生がそこでブツッと切れました」と語る。

その後は選手を支える裏方として才能を発揮するようになる。卒業して陸上自衛隊に入隊。同じ頃に箱根初出場を悲願とする上武大学駅伝部からコーチの誘いがあり、自衛隊の任期を終えると住み込みで選手をサポートすることになった。

箱根で走ることが叶わなかった星野さんには選手に伝えられる思いがたくさんあった。「結果を出す人は本当にひと握り。だから結果を出せなくてもやりきることに意味があると、選手たちには伝えました。結果も大切ですけど、目標に至るプロセスを強化していくことは次のステージにつながる」

コーチに就任して3年後に上武大は箱根初出場を果たし、それから4年連続出場の好成績を残した。箱根駅伝への未練を指導者としての成功で吹っ切り、プラスマイナスをゼロにした手応えもあった。「やりきった」、そう感じた星野さんは2年間、陸上の世界を離れ、全く走らなかった。賃貸住宅管理業の営業職に就き、ごく普通の会社員として働いた。

片品に新しい風を吹かせたい

2年の休息は、星野さんが客観的に自分を見つめ直す時間になった。

「陸上は進まなければいけない道のように自分の中に根づいてしまっていたのですが、また走り出そうと思った時、今度は楽しいことをやろうと思ったんです。楽しいことって何だっけ? 山って楽しいよなぁと」

武尊根BASEから武尊山を望む

國學院時代の練習で、体幹を鍛えるために高尾山を走るトレーニングがあった。星野さんはその練習を誰よりも楽しんだことを思い出した。「面白かった。周りはみんなブーブー言っていましたけど、僕はもう楽しくて」

自衛隊退官後に誘われて出場した富士登山駅伝競走大会も印象に残っていた。鏑木毅さんや松本大さん、横山忠男さんといずれも過去に優勝経験のある県内アスリート3人が顔をそろえたチームに参加し、山登りの楽しさを再認識した。

星野さんはトレイルランニングの大会にも関心はあったが、松本さんを通してスカイランニングを知る。嬬恋村出身で鹿沢の山を駆け登って育った松本さんの生い立ちは星野さんとよく似ていた。山を愛し、山岳アスリートを名乗る松本さんは、世界各国のスカイランニング大会で好成績を叩き出し、日本でもスカイランニングを普及させようと2013年に協会を立ち上げたばかりだった。星野さんも自分はスカイランニングの方が合うと感じた。

伊・チーマヴェロッソ山を走る星野さん

「松本くんの活動がすごく面白そうだなと。山を駆け登る楽しさって、走るのが好きって感覚とはちょっと違うんですよね。僕が始めたのは34歳でしたが意外と速くて、すぐに日本のトップ選手と肩を並べるタイムを出せました。山をアクティビティにするのは天性だと思いました」

尾瀬・至仏山でスカイランニングを楽しむ星野さん。スカイランニングは残雪の上を走ることもある

スカイランニングの魅力を星野さんはこう語る。

「フルマラソンより過酷だと思いますよ。でも、楽しい。キツいんだけど、すぐ忘れちゃうというか。息をはぁはぁさせながら登っていって、ギューッと視界がキツくなっていって(山頂に出ると)急にパーンッて拓く。ゆっくり登る時の感覚とは違って本当に急にパーン! と拓ける景色が本当に気持ち良くて、それでまた登ろうと思うんです」

スカイランニングの爽快感は、自分が育った環境とスポーツとの近しさでもあった。足が速ければ陸上、サッカーと、スポーツは育った環境をあまり考慮せずにレールに乗せてしまう傾向があるが、スカイランニングは星野さんが得意なことをとりまとめたような競技だった。自分のやってきたことが丸々肯定される。そんな感覚は陸上にはなかった。

「スカイランニングで一番の目標にしているのは順位でなくて無事に帰ってくること。ゴールすると『生きて帰ってこられた!』みたいな達成感が本当にあるんですよ。登山もそうですけど、登りきった後のご飯ってすごくおいしいじゃないですか。生きていると実感できます」

「もっと片品村に合うスポーツをフィッティングさせるべきだと気づきました。僕も箱根駅伝を引きずりましたけど、時間が経って落ち着いたら自分は向いていなかった、そう思える部分もあったんです。僕自身、新しいスポーツを知って切り替えられた部分はあるので、片品にも新しい風を吹かせることは必要だなと」

スポーツを活かす観光とは?

星野さんは2015年に初めての大会を尾瀬岩鞍スキー場で企画した。雪のない時期にスキー場の傾斜をそのまま活用してレースを開催できるので、スキー場側にとってもメリットは大きい。「ゲレンデを駆け登る」、そう説明すると驚かれたが、星野さんは新たな利用者層の獲得につながるスカイランニングの魅力を熱心に伝えた。

話し合いの末、大会はオフシーズンでかつ最も来場者が落ち込む10月中旬に設定した。スカイランニングの種目のひとつ、傾斜を駆け登る「バーティカルキロメーター」の国際基準(5km内で標高差1000mを上がる)を満たした国内初大会であるとうたい、ランニング愛好者から国内外のトップアスリートまで、およそ300人を集めた。

バーティカルは一部に33%の傾斜を含むことが国際規格だが、岩鞍は40%を超える急峻な坂があるハードなコース

1kmのキッズレースは、地元の子どもたちが山岳スポーツの楽しさを知る入り口になる

星野さんはスカイランニングが片品のスキー場にとっても利用者回復の一助になればと考えた。スカイランニングの愛好者は方々の大会にエントリーする人が多く、出場後に近隣で登山を楽しむ人も多い。星野さんはランナー仲間のサポートを受けて丸沼高原、武尊でも登山競争や山岳レースを企画。続いて、かたしな高原、尾瀬国立公園でもスノーランやマラソン大会を立ち上げ、5つの大会を「片品マウンテンズシリーズ」とひとくくりにした。シリーズ化して片品を再訪するファンを増やし、片品全体を盛り上げたい−。星野さんは、その構想を「スカイランニング・ツーリズム」と名づけた。

星野さんがイメージする“観光”とは、80年代のスキーブームのような感じとは少し違う。消費してお金をたくさん落としてもらうことを主眼とせず、片品の自然を愛してもらい、観光客にも山の保全を考えてもらうような観光だ。今、世界的にも観光客が地域資源の再生に参加するこうした「リジェネラティブ・ツーリズム」(再生型観光)は脚光を浴びつつある。

「コロナの影響で、飲み会メインの団体のお客さんと、本当にスキーが好きで、山が好きなお客さんの差ってバァーンと出たんですよ。村には山が好きな人を大事にする文化を大切にしてほしいし、子どもたちに片品の自然を残したいという思いでやっています」

昨年10月に初開催した「尾瀬戸倉尾瀬国立公園マウンテンマラソン」は、鳩待峠や大清水などに比べて入山ルートに使う人が少なくなった富士見峠をコースに入れた。走者にはスタート前に靴についた種子を落としてもらい、峠から富士見田代湿原まで1kmの木道は走らずに歩く。晩秋のアヤメ平湿原を楽しみながら、特別保護地区に立ち入る際のルールも学んでもらう、環境保全の観点を取り入れたレースになっている。

片品の木材を使用した尾瀬マラソンの入賞メダル

山に境界線が引かれているわけではない。スカイランニングは山が主役なので、人が引いた行政ラインは越える力がある、星野さんはそう信じている。星野さんが子どもの頃は村内8区の対抗戦や駅伝レースまであったそうだが、地区間の交流は年々少なくなっている。村内の3つの谷をスカイランニングでつなげたい−、5つの大会をプロデュースした背景にはそんな思いもある。

星野さんの活動仲間で、片品に移住したアスリートも何人かいる。2020年スカイランニング国内チャンピオンの上田絢加さんもその一人

北アルプスの玄関口に当たる長野の松本は“岳都“と呼ばれている。

「片品から嬬恋に連なる群馬の大山脈もアルプスに負けないと思います。海外に行っても全く同じことを感じます。スカイランニングはまちと山をつなぐ環境ありきのスポーツ。行政と地域住民、運営側がしっかりチームワークを組んでやれば群馬県はすごいことになる。やればやるほどそう思わずにはいられません」

「世界選手権が開かれたイタリア・オッソラは空港からミラノを抜けて約2時間。東京からの距離感、景色も片品に似ていて驚きました。イタリアなのに片品で走っているような感じ(笑)。海外にも全く引けを取らない環境だし、すごくポテンシャルがあることに気づかされます」

信号もコンビニも一つしかない、限界集落だと感じていた学生時代からふるさとの印象は大きく変わった。スポーツをやればやるほど見えてきたのは、自分がこの特別な環境に育てられてきたという事実だった。今は子どもたちにこの環境を残し、山岳スポーツの魅力をたくさんの人に知ってもらいたいと考えている。世界に引けを取らない片品の自然を、山岳スポーツを愛する人たちと地元の人たちが理解し合いながら利用し、守っていく。こうした人的交流をブームでなく、文化として根付かせたい−、星野さんの話は尽きることがなかった。

「僕が一番うれしいのは『尾瀬って片品だったんだね』とか、『武尊って片品だったんだね』と片品を知ってもらえること。片品をほめられると自分をほめられているかのようにうれしいんです」

不思議なことに、選手やコーチとして陸上に全力を尽くしていた頃と、裏方として大会をプロデュースすることが多くなった今とで共通点が多いそうだ。

「スカイランニングは行政と地元の人の理解がないと成り立たないので、理解者を増やして、環境を作って、チームビルディングに取り組んでいるところですが、スポーツで成果を出すこととプロセスの磨き方がそんなに変わらないんです。やり続けることで仲間が増えて、やるべき課題が見つかって、その解決策を考える。このルーティンを何度も繰り返すことで、必ず成果は出ると思っています。今8年目ですが、やりきったと思えるところまで続けます」

ライター:岩井 光子、撮影:市根井 直規(合同会社ユザメ

登壇者

星野 和昭 片品マウンテンズシリーズプロデューサー/スカイランナー

片品村生まれ。國學院大卒。陸上自衛隊を経て上武大駅伝コーチに就任。東京五輪パラリンピックで渋川市出身の唐澤剣也選手のコーチを務め、男子5000m(視覚障害T 11)で同選手を銀メダル獲得に導いた。スカイランニングでは2015年アジア選手権3位。翌年世界選手権日本代表に。競技活動を続けながら、片品でスカイランニングや山岳スキー「SKIMO」の普及活動や大会プロデューサーとして奔走中。前橋市在住。