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【湯けむりアーカイブス】市民の映画愛が育んだ高崎の豊かな映画文化

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シリーズ『湯けむりアーカイブス』では、群馬県内各地に根付く固有の文化や伝統、産業などを見つめ直し、地域の求心力であるその価値を丹念に紐解いて記録。未来へとつなげます。

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東京に行かなくても地方で多様な映画を見られる鑑賞環境を実現させているのが高崎市。市民ボランティアが中心となり、毎春開催されている高崎映画祭は、高崎市や地元企業、映画関係者を巻き込みながら大きく成長し、全国有数の成功例として知られるようになりました。2004年、同祭事務局は特定NPO法人を設立。現在は「シネマテークたかさき」と「高崎電気館」の2つの常設館を運営し、それぞれで見応えのある上映プログラムを提供。映画・映像文化にかかわる公共的な事業にも広くかかわるようになっています。

Contents

1 高崎映画祭
2 シネマテークたかさき
3 高崎電気館
多様な鑑賞環境が生んだもの

1 高崎映画祭

高崎映画祭は今年35回を迎える。地方では上映機会の少ない独立系配給会社の秀作や若手作家の自主製作作品などが一挙に見られる祭典として広く親しまれてきた。

運営は毎年60人ほどの市民ボランティアが支える。とりわけ市民の映画愛を感じるのが、最優秀作品賞など各賞を受賞した製作陣が来県する授賞式だ。製作チームや出演俳優にとっても、高崎映画祭のスタッフや観客の温かな声援は大きな励みになるという。映画の作り手と観客の距離をこれほど近く感じられる映画祭もなかなかないかもしれない。

第34回高崎映画祭授賞式で。受賞者が記念品のだるまを持ってカメラに収まる様子は高崎の春の風物詩 (高崎映画祭事務局提供)

事務局が良いと思った作品に自信を持って賞を贈る同祭の方針を“ディレクター主義”と呼ぶそうだ。他の映画祭では受賞を逃した作品が、高崎ではグランプリに輝くことも多く、その審美眼は映画関係者からも定評がある。受賞の常連には、是枝裕和監督や西川美和監督、濱口竜介監督らがいる。彼らにとって、高崎は初期作から変わらない評価をし続けてくれる「特別な場所」だ。

是枝監督は「高崎があるから、また新しい作品に挑める」と、高崎での受賞が次作に臨む活力になると話していた。俳優のオダギリジョーさんも「人生で初めて主演男優賞をもらったのが高崎。作品選びやセンスの面で高崎は僕に合う。高崎が選んだ作品は見てみたくなる」と、高崎にかなり好感を持っている。

パンフを入手したら、予定を繰り合わせて鑑賞計画を立てるのがファンの楽しみ。今年も3月下旬の一週間、高崎芸術劇場やシネマテークたかさき、高崎電気館などで邦画・洋画合わせて47作品が上映される

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高崎映画祭には、長く代名詞だった人がいる。茂木正男さんだ。茂木さんは無類の映画好きが高じて高崎映画祭を立ち上げた。2008年にがんで早逝したが、亡くなってからもその人となりと映画にかけた情熱は語り草になっている。

茂木さんはNTT東日本群馬支店の社員としてサラリーマン生活を送りながら映画祭のプロデューサー兼事務局代表をこなしていた。茂木さんは映画に関しては古今東西あらゆる作品に精通していた一方、新進作家の発掘と育成にも力を入れていた。忙しい合間をぬっては、小さな会場の自主上映会にも足を運んでいたという。低予算で作られた荒削りな作品であっても、上映や舞台あいさつの機会を用意し、彼らが製作費を回収して新たな作品に挑めるよう手を差し伸べていた。

それが今に続くシリーズ「監督たちの現在(いま)」だ。茂木さんの遺志を継ぎ、この特集が「映画祭の一番の見どころ」と勧めるスタッフは多い。自らの足で新しい才能を発掘してきた茂木さんの初心を忘れてはいけないという彼らの思いも、そこには込められているように思う。良い作り手を本気で応援する映画祭の精神が伝わるからこそ、高崎は多くの映画関係者に慕われ、信頼されるのだろう。

協賛に関しては地元の有志も交えた実行委が地道に信頼関係を築いてきた。高崎映画祭は全国に類を見ないほど行政や地元企業から手厚い支援を得ている

2 シネマテークたかさき

シネマテークたかさきは2004年、旧新潟中央銀行ビルを改修してオープンした。駅西口から歩いて5分ほどと交通アクセスの良い場所だ。

シネマテークでは主に単館系の新作が上映されるので、ショッピングモールなどに併設されたシネマコンプレックス(複合映画館)とは違うラインナップの作品が見られる。最近の上映では「パラサイト」や「ドライブ・マイ・カー」など話題作が人気を集めたが、一方でフレデリック・ワイズマンなどカルト的な人気のある監督の新作、アート系のドキュメンタリー、LGBT、気候変動などの社会問題を考えさせるシリアスな物語、コメディ、サスペンスにホラー、あるいは過去の名作のデジタルリマスターなど、ジャンルも世界観も国籍も多様で、振り幅が広いのが魅力だ。誰のどんな気持ちにも寄り添ってくれる作品がここならある、と思わせてくれる。

多様性のあるシネマテークの上映プログラム。県内各地から映画ファンが訪れるが、近県では高崎でしか上映されないような作品には他県からはるばる足を運ぶ人も

シネマテークは常勤の職員が4人、他の仕事と掛け持ちの職員が2人、あとは5、6人のアルバイトで運営している。設立したのは、茂木さんら高崎映画祭を支えてきた中心メンバーだ。映画祭を始めた頃から映画館を作る構想は既にあったそうだが、郊外型のショッピングセンターとシネコンの台頭で2003年、高崎の中心商店街にあった最後の上映館「高崎オリオン」が閉館したことが直接の引き金となった。映画祭事務局は翌年、特定NPO法人「たかさきコミュニティシネマ」を立ち上げ、同年12月にまちなかの映画館の空白を埋めるようにシネマテークたかさきを作った。

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高崎映画祭事務局がNPO法人を設立した理由は、映画産業が抱える問題と深くかかわる。

都内で上映される映画に比べ、地方で見られる映画は圧倒的に多様性に欠ける。高崎映画祭が当初から目指していたのは、鑑賞環境の格差をなくすことだった。だが、1990年代からシネコンが増えると、格差の広がりは加速した。シネコンは興行収入に応じて作品を振り分けるので、日本中どこでも同じ作品が上映されることになる。洋画でいえば、シネコンで上映されるのは公開本数の2割ほどに留まるので、地域にミニシアターなど単館系の上映館がなければ残り8割は見るチャンスがない。

高崎映画祭プロデューサーでたかさきコミュニティシネマ代表の志尾睦子さんは、こう説明する。

「公共的な映画館という位置づけにしないと、地方の映画文化は守れないということで、コミュニティシネマという概念が2000年に誕生しました。官民一体となって映画文化を守るために映画館を作るという発想です。お手本になったのはドイツのコミナール・キノという地方政府の支援を受けた公共性の高い映画館。コミナールが“公共性”、キノが“映画”という意味。つまりコミュニティシネマはコミナール・キノの和訳ですね」

映画の多様性を確保するためにも、産業に偏りすぎず、NPOのような官民一体の組織で映画を「文化」として守るという考え方を示した高崎はコミュニティシネマ運動の草分けとなった。コミュニティシネマという名称を組織名に使ったのも高崎は全国初で、NPO法人を母体とした常設上映館を作ったのは全国2例目だった。志尾さんは一般社団法人コミュニティシネマセンターの理事も務めていて、ミニシアターやコミュニティシネマ関連のシンポジウムに登壇する機会も多い。

3 高崎電気館

まちなかの映画館の灯を消さないために設立を急いだのがシネマテークだったが、2014年には中心商店街で最も歴史の古い映画館が再生することになった。シネマテークからは歩いて5分ほど。高崎電気館は中央アーケード通りから柳川町の繁華街に向かうレトロな横丁沿いにある。

「年輪を刻んだ大木のようなたたずまい」と志尾さんが表現する電気館は昭和41年築。戦後、建て直されているが、電気館の会社自体は大正2(1913)年に創業したので100年を超える歴史がある

社長の広瀬正和さんが病に倒れ、2001年に閉館してからは、妻の公子さんが月に一度風を入れたり、掃除をしながら大切に建物を守り続けていた。その一途な行動に心を動かされた、と志尾さんは話す。どうしても映画館として復活させたいという公子さんの気持ちをくみ、周囲が動いた。協議の末、建物は市に寄贈され、シネマテークが運営することになった。

高崎の市民オーケストラ「群馬交響楽団」の草創期を描いた名作「ここに泉あり」は毎月、電気館で無料上映されている

電気館では旧作を組み合わせた特集上映をメインとしている。若尾文子、市川雷蔵など往年のスターの作品を特集する名画座のほか、夏に約5時間におよぶ東京裁判などの戦争ドキュメンタリーを特集したこともある。また、インド映画祭やアイドル映画祭、大音響の中で音楽映画の“音”を楽しむ「爆音映画祭」などマニアックな企画には県外からも泊まり込みで見にくる映画ファンがいるそうだ。

ライブ用機材を運び入れる爆音映画祭は、準備やリハーサルに2日かかるという。電気館で映画が上映できるようになったからこそ、実現した企画だ

電気館が加わってから、上映作品のバリエーションは一層充実したとシネマテークたかさき支配人の小林栄子さんは感じている。

「シネマテークを開館した2004年に日本で公開される映画は800本くらいでしたが、2013年には1200本に増え、年々公開本数が増えています。映画がデジタル化して、作りやすくなったこともあると思います。新作が多すぎてあれもこれもやりたいのに上映しきれないという悩みがありましたが、今はシネマテークで新作、電気館では旧作の特集上映と、すみ分けができるようになりました」

「シネマテークより座席数が多いので、是枝さんやオダギリジョーさんが舞台あいさつに来てくださる時にもこちらを使いました」と小林さん

映画の多様性はそのまま人間の奥深さを教えてくれる。小林さんがプログラムを組む際に大切にしているスタンスが参考になる。

「映画は見た人によって受け取り方が全然違うので、上映側が『この映画が良いから絶対にこれは見て!』というのは違うような気がします。いろんな映画をフラットに上映して、見る方それぞれの感性で良し悪しを決めていただく。そのためにも選択肢を広げたい。私自身、自分で選ばなかった映画を見る機会がすごく増えました。そうすると本当に知らないことがいっぱいあるんですよ。映画館に来るお客さまにも知らない世界と出合ってほしいなという思いで上映をしています」

「映画は自分が『生きなかったもう一つの人生を生きる場所』という言葉に出合ってすっごく感動したのですが、そういう場作り、環境作りに努めなければ、と思っています」

電気館のように旧作も特集上映として編成してもらうと、見る方もたまたま知っていたり、関心のある1本の映画を糸口に他の作品を見やすくなり、そこから新たな作品や作家との出会いが広がっていく。知らなかった世界や見たことのない表現との出合いこそ、映画の醍醐味だ。

多様な鑑賞環境が生んだもの

シネマテークの主要メンバーはたかさきコミュニティシネマとも重なるため、現在の業務は映画の上映に加え、映像文化にかかわる公共性の高い活動全般に広くかかわるようになった。

映画の内容に合わせたトークやシンポジウムを企画し、観客によりテーマを深堀りしてもらう機会を設けたり、高崎音楽祭や市内の美術館、企業や小売店などと連動し、映画の世界観を高崎のまちで楽しんでもらうような企画も増えた。

「高崎グラフィティ。」の撮影風景

高崎フィルムコミッションも2014年から業務をまかされている。こちらは専従のスタッフもいて、映画やテレビの撮影支援や誘致も行う。

例えば、2018年公開の「高崎グラフィティ。」は、撮影監督の武井俊幸さんが高崎出身だったことから全編市内で撮影が行われ、高崎フィルムコミッションがサポートに入った。武井さんは高校時代、シネマテークに通っていて、映画の道を志すようになったという。

武井さんのようにシネマテークで映画を見て育ち、製作の道に進む若者が増えている。今年の高崎映画祭でクロージングを飾る「フタリノセカイ」を撮った飯塚花笑監督は、シネマテークでアルバイトをした後に上京し、書き上げた作品が商業映画の長編デビュー作となった。若者に人気の映画監督・枝優花さんも高崎出身。映画のまち、高崎の景色が創作の支えになっていると語る。

「地方でも見たい映画を見たい」と活動を始めた高崎映画祭はNPO法人として映画・映像文化の普及・啓発にも幅広くかかわるようになり、今は映画製作者を高崎とつなげるハブとしても存在感を発揮するようになった。 シネマテークで映画を見て育ち、映画の世界に入った若者が、高崎フィルムコミッションと協力して新作を撮り、高崎映画祭に招待される。そんな流れが生まれつつある。多様な映画の鑑賞環境を作ったことで、高崎に若い世代の映画製作者が増えてきたことは興味深い。高崎の映画文化は、ますます成熟度を高めている。

(ライター:岩井光子、撮影:合同会社ユザメ 市根井 直規)

登壇者

志尾 睦子 NPO 法人たかさきコミュニティシネマ 代表理事/シネマテークたかさき総支配人/高崎フィルム・コミッション代表/高崎映画祭プロデューサー/一般社団法人コミュニティシネマセンター 理事

大学在学中に高崎映画祭ボランティア活動に参加する。2004年NPO法人たかさきコミュニティシネマの設立に関わり、群馬県内初のミニシアター、シネマテークたかさきを開館。支配人となる。2008年前代表の逝去に伴い、後を受け継ぐ形で現職となる。

小林 栄子 シネマテークたかさき 支配人

高崎市出身。2001年、第15回高崎映画祭よりボランティアスタッフとして参加。2004年のシネマテークたかさき立上げより携わり、開館時から副支配人。2014年より現職。