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全国群馬県人図鑑-グンマーズ-vol.4 渡邉俊さん×髙橋美紀さん【前編】

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全国群馬県人図鑑(-グンマーズ-)は、さまざまな分野で活躍する県ゆかりの先輩方をお招きし、学生時代の思い出や故郷への熱い思いを聞き出していくトークセッション。シリーズ開催の第4回は、上毛かるたの真の日本一を決定する大人たちの熱いバトル「KING OF JMK」をプロデュースする渡邉俊さん、太田で女性起業塾「おおたなでしこ未来塾」の運営に携わる髙橋美紀さんが登場。

群馬県人がつい口走ってしまう「自虐(ネタ)からの卒業」をテーマに、ゲスト二人の出身校の現役高校生ゲストと共に、群馬の魅力や可能性を探っていきます。9月26日にZoomで実施されたトークのダイジェスト版を、前編・中編・後編に分けてお届け。

大人が熱くなる JMKとは?

西部沙緒里MC(以降、西部) みなさん、こんばんは〜。今日のテーマは「自虐からの卒業」。一時期のインターネット界隈での盛り上がりもあり、自虐的トークは群馬県出身者の「あるある」ネタにされがちなところもあります。今日はそんな自虐史観から一歩抜け出して、客観的に群馬の魅力を眺めたり、未来の可能性を考える時間にできたらと思い、このテーマをぜひ一緒に考えたいと思ったお二人をお招きしています。まずは渡邉さんから、自己紹介をお願いできますか?

渡邉さん(以降、渡邉) はい。僕は安中市生まれで、高崎高校出身です。大学が横浜だったので高校卒業と共に群馬を離れ、もう28年経ちます。今は横浜在住です。大学卒業後は日産自動車でマーケティングリサーチの仕事を15年間やって、その後、独立してマーケティングリサーチのコンサル事務所を立ち上げました。

本職はマーケッターですが、一方で一般社団法人KING OF JMKの代表理事もしています。JMKは上毛かるたの略で、「大人たちの上毛かるた日本一決定戦」というイベントを2013年からやっています。上毛かるたは76年前の1947年にできました。この76年の間に、上毛かるたの猛者だった子どもたちは大人になって今や日本全国、いや世界に羽ばたいているだろうと。

その人たちが一堂に会して、真の日本一を決めるというイベントをやったら面白いんじゃないか。それも群馬でなく、東京であえてやる。東京には群馬県外の人がたくさんいますから、そういう人たちにも上毛かるたを見てもらう機会を作ることで、群馬の魅力配信につなげたいと思ったことがきっかけです。

2023年10月には、大人たちの上毛かるた日本一決定戦を高崎の少林山だるま寺でやりました。これまで都内でやっていた大会をなぜ群馬に移したかというと、最近上毛かるたをやらない子がだんだん増えてきているんですよね。小学生でも塾で忙しかったりして時間がない。さらにここ数年はコロナの影響でかるた離れが加速している状況ですので、この辺りで上毛かるた熱をもう一度再燃させたいという思いから、県内で初開催しました。

「自虐してる場合じゃない」

西部 続いて髙橋美紀さん、自己紹介お願いできますか?

髙橋さん(以降、髙橋) こんばんは〜。髙橋美紀と申します。私は元の伊勢崎女子高校、今は伊勢崎清明高校になりましたが、そこの卒業生です。茨城県の常陸太田市在住で、一般社団法人なでしこ未来塾の理事を務めたり、いろんなことをやっています。渡邉さんと同じく、私も高校を卒業して、日本女子体育大学への進学を機に東京に出ました。高校時代はダンス部で、創作ダンスをずーっとやっていて、高校時代の思い出はダンスしかない(笑)。卒業後は東京でダンサーやメディア系のお仕事などをバリバリやっていたのが、まずはファーストキャリアですね。

そこから、縁があって24歳で母親になったんですけど、まだ待機児童っていう言葉も出てきていない頃で、待てど暮らせど保育園に入れない。上の子は3歳まで自分で見ていましたが、二人目の妊娠をきっかけに「ちょっとやってられんわ、東京…」(笑)となり、保育園を探すために2010年、一時的に群馬に戻ってきました。伊勢崎出身ですが、祖母の家があった太田に引っ越し、子どもも無事保育園に入園できました。

太田は働きやすく、住みやすいまちで、子育てをしながらヨガ講師をしたり、市の女性起業塾「おおたなでしこ未来塾」にも通って一期生として卒業しました。「よし! 太田で起業してめっちゃ働くんだ〜‼︎」と思っていた矢先の2016年、太田を離れることになりました。実は当時のパートナーが茨城出身だったので、家族で茨城に帰ることになったんです。後ろ髪引かれる思いだったのですが、その後2020年に太田で発足した一般社団法人なでしこ未来塾の運営メンバーにお声がけいただき、理事として参画することになりました。ですので、今でもしょっちゅう北関東道に乗って群馬に帰ってきています(笑)。

(一社)なでしこ未来塾のコンセプトは、「多様な生き方を応援する」です。確かに東京にチャンスはたくさんあるけれど、社会制度が追いつかないところもあって、上京してチャレンジしてもいまだに仕事と家庭を両立できない人は多い。でも、働きたいがために東京にしがみつく必要って本当にあるんだっけ? と疑問も湧きますよね。子育てや家族の事情で地元に戻っても、都心に出なくても、こちらでテレワークや起業だったり、いろんな仕事を自ら生み出せる人を作りたいと思ったんです。

私自身、子どもが小さい頃は託児もなく、終日まるまる自分のために、しかも経営なんて勉強したことはありませんでした。周囲からは「こんなに子どもが小さいのに。もうちょっと大きくなってからにしたらどう?」と、3歳児神話を引き合いに出されたことも多々ありましたが、そういった助言を私はなかなか肯定的には受け止められなくて、「だってそうしたら、子どもが大きくなる前に私の気持ちが萎えちゃうじゃん!」って(笑)。

起業塾では、そんな私自身の原体験をベースに、講座には託児も用意して、女性が何かを始めたいと思った気持ちの“種”を芽吹かせることを大事にしています。自分の価値を最大化するためのタレントマネジメントやIT講座も企画して、さまざまな形で起業を目指す女性たちのプラットフォームとなることをミッションに活動しています。だから自虐している場合じゃないぞと(笑)。

西部  なるほど。いいですね〜(笑)。

埴輪スタイルでチャリの日々

西部  さて、今日はそんなパワフルなお二人をお迎えしてお届けしています。ここからは高校生参加者の皆さんも入っていただいてクロストークしていきたいと思います。まず、ゲストのお二人が印象に残っている高校時代のエピソードなどお聞かせいただけますか?

渡邉 僕は硬式テニス部でした。中学の時は陸上部で、高校でも陸上部に入るつもりでしたが、当時の陸上部の顧問の先生がめちゃくちゃ怖くて(笑)。そんな時、友だちに「テニス部入ろうぜ」って誘われて、テニス部にしたんですけど、中学からテニスやってるやつには敵わなくて、ずっと補欠でした。でも、部活後にみんなで当時学校近くにあったファミリーマートに行って、みんなでコロッケ買って食べたり。そういうしょうもないことがすごく面白かった。

西部  美紀さんは?

髙橋  今、清明高校近くにおしゃれなスタバがありますよね。私が学生だった時は何もなかったから、もうびっくり! 当時は宮子のまちが商業開発され始めた頃だったので、部活が終わったら吹きざらしの中、「埴輪スタイル」って呼ばれる制服の下にジャージの長ズボン履いた格好でひたすらチャリこいで、宮子のハンプティーダンプティーへ行くとか、とにかくおしゃれなものが見たかったから、そういう雑貨店とかにみんなで入り浸っていましたね。ルーズソックスが流行ったギリギリ最後の時代で、しかも女子校だったので、世界で一番私たちが面白いし、最高だって思っていて、もう箸が転がっても笑えるような感じでした。

本もすごく好きだったので図書館にもよく行きましたが、とはいってもやっぱり体育大へ行くくらいなので、体力が余っちゃう(笑)。思春期のいろんなもの抱え込んで親とけんかして、「もう家にいたくない!」って時は、スタバなんて近くにないからサイクリングロードで、うおおおーっって前橋まで行ったりして(笑)、とにかくチャリこいでいましたね。

西部  大体「風」のエピソードが出てくるんですよね(笑)。私も懐かしいです。

からっ風から逃れたくて?

西部  お二人とも進学先は首都圏を選んでいますが、県内の大学に進学する選択はなかったですか? 

渡邉  僕は一人暮らしがしたかった。3つ上に兄がいるんですが、その兄が京都の大学に行っていたので、関西方面の大学に進学すると「一緒に住みなさい」とか言われちゃうじゃないですか。それが嫌で‥

西部  確かにコスパ的にはそうなりますね(笑)。

渡邉  そう。本当は僕、第一希望は北海道大学で、札幌に行きたかったんですけど、運悪く落ちちゃったんで。でも、首都圏の大学だったら兄と住まなくてもいいし、実家も出られるし、いいかなと。そんな感じで横浜国立大学に進学しました。

西部  なるほど。そのまま就職も横浜で。

渡邉  そうですね。就職も日産自動車に決まったんですけど、就職活動中に情報を探していたら「神奈川県で働ける仕事」で日産自動車が出てきたんですよ。僕は車が大好きだったので、だったらいいかなと思って受けて受かったんですけど、最初の配属先が栃木工場(笑)。

西部  なんと! 神奈川で働けなかった(笑)。

渡邉  6年して帰ってこられました。栃木もいいところなんですけどね。

西部  美紀さんは?

髙橋  はい。私は中学、高校とずーっとダンス部で、そういう意味では群馬大学の表現運動の分野とかは関連があったんですけど、私は小さい頃から独立心旺盛というか、親の言うことには基本反抗するっていうタイプでして(笑)、高校時代もおとなしくはしていませんでした。伊勢崎の茂呂町というところで生まれ育って、18年間高校までずっと地元にいたので、いいかげんこのからっ風から逃れたいと。嘘ですよ(笑)。でも、おそらく伊勢崎でもできることはたくさんあるけれど、外の世界に出て、もっと自分の視野を広げたい、未知のことに挑戦したい。それが若さゆえなのか、元々の性格だったのか…、いまだにそういうことは大好きでやっちゃっていますので。

とにかくそういったところがありましたね。群馬の教育ダンスの世界にも恩師の先生とか、中学にも高校にもサポートをしてくれるメンバーは周りにいたんですけど、誰も知らないところでゼロからやってみたい気持ちが勝って、一か八か日本女子体育大のAO入試を受けたら受かっちゃったので、これはラッキーだと思って上京しました。

西部  大学を卒業して最初の仕事は何でしたか?

髙橋  上京したんですけど私、大学1年の時に靭帯を切って、要はダンサーとしての生命はもう無理だという手術をしたんです。せっかくAO入試に受かって、夢あふれる世界に飛び込んだと思っていたのに、1年で夢破れたことが自分の中でどうしても腑に落ちなくて…。「よしわかった。私はもうダンサーでNo.1には絶対なれない。それなら仕事でオンリーワンを目指そう」と気持ちを切り替え、大学1年のうちからインターンでいろんな会社さんに入らせていただいていました。

一般的な新卒という形での就職試験も受けていたんですけど、エントリーしたどの会社も実は学生時代から業務委託でプロジェクトに入らせてもらっていたので、「このまま就活のレールに乗っていいの?」「いやいや、それはないでしょ」と自問自答して。自分の名前で仕事をすることができていたし、組織は自分で作っていこうと考えたからなんですけど、これも若気の至りですかね〜(笑)。結局どこにも就職しなかったんです。

だからいわゆるプー太郎ですよ。教員だった両親からは「何やってんだお前は!」って怒られましたけど、私の中では自分の力で稼いでいくという決意は固かったから、筋は通っていると思っていました。

(中編に続く)

次回はゲストの2人が上毛かるたを深掘り。プロのマーケッターが上毛かるたに目をつけた理由とは? 都心では営業ツールにもなる??

(ライター・岩井光子)

登壇者

西部 沙緒里 株式会社ライフサカス CEO

前橋女子高、早稲田大学卒。博報堂を経て2016年創業。「働く人の健康と生きる力を応援する」をミッションに、働き盛りの人が抱える生きづらさ・働きづらさを社会全体で支える環境づくりを進める。研修・講演事業、コンサルティング・アドバイザリー事業、Webメディア・オンラインコミュニティ事業の3領域で、全国の企業・行政・学校などとさまざまな協業や伴走支援を行う。 NPO女性医療ネットワーク理事、(独)中小企業基盤整備機構・中小企業アドバイザー。2020年東京からUターンし、新たに(一社)かぞくのあしたを設立。高崎市在住。

渡邉 俊 マーケティングリサーチコンサルティングLactivator 代表/(一社)KING OF JMK 代表理事/(財)碓氷峠交流記念財団元理事

1977 年生まれ、安中市出身。大手自動車メーカーでの15 年間のマーケティングリサーチ経験をもとに2016 年独立、日本全国の活性化に飛び回る日々。

故郷・群馬の地域振興にもそのスキルを活かし、2013年から上毛かるた全国大会「KING OF JMK ~おとな達の上毛かるた日本一決定戦~」を主宰。2017 年には、県の観光応援を目的としたスマホアプリ「札ッシュ!! 上毛かるたGO!」をプロデュース。

髙橋 美紀 (一社)なでしこ未来塾理事/ヨガ講師/茨城県よろず支援拠点コーディネーター ほか

1984年生まれ、伊勢崎市出身。(一社)なでしこ未来塾理事ほか、ヨガ講師や茨城県よろず支援拠点コーディネーターなど多彩な肩書きを持つ。在学中よりメディアの仕事をはじめ、TV や舞台・映画の振り付けや出演の他、演出助手・AD などコンテンツ制作の裏と表で活動。
2012 年に拠点を都内から群馬へ移し、多世代交流の場とよそ者視点を活かしヨガ講師として活動。「おおたなでしこ未来塾」一期生として卒塾後、2016 年茨城県へ移住しながら、2020年より(一社)なでしこ未来塾に参画。太田市とを行き来する生活を送る。

木暮啓人 高崎高校2年

樫村陽斗 伊勢崎清明高校2年

中澤楓 伊勢崎清明高校2年