- REPORT
【じょうもう今昔物語】
「『やる』を続ければ街が変わる。温泉マーク(♨)をシンボルに活気、再び」ホテル・磯部ガーデン社長の櫻井太作さん
【湯けむりフォーラム×上毛新聞】
1887(明治20)年の創刊以来、群馬県内のニュースを伝え続けてきた地元紙「上毛新聞」。約135年分の歴史が詰まった紙面のデジタルアーカイブをひも解けば、まちの過去と人のつながり、先人たちの思いが見えてくる。
今回は「まちづくりの先達」をテーマに、各地のまちづくりをけん引してきた方を過去記事とともに紹介していく。
Contents
・団体客でにぎわい、増築ラッシュも
・観光客は右肩下がり、世界遺産に勝機
・変更騒動で♨に注目、磯部のシンボルへ
・静かな温泉街に、それぞれの活気を
「いらっしゃいませ。お疲れさまでした」。
新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けが引き下げられた直後の2023年6月、磯部ガーデン社長の櫻井太作さん(52)は、コロナ禍以前と同じように宿泊の団体客を笑顔で迎えた。
コロナ禍で激減した団体客がようやく戻り始めた状況に、喜びをかみしめながら「これからだ」と前を見据える。
群馬県は草津・伊香保・四万・水上などに代表される「温泉王国」。各地には大小の特色ある温泉地が点在し、県西部に位置する磯部温泉は、誰もが知る温泉マーク(♨)の発祥の地として知られる。
「磯部温泉といえば、温泉マークと、鉱泉水を使用した薄焼きの『磯部せんべい』。有名というか、これしか売りがないんだよ」。磯部観光温泉旅館協同組合長でもある櫻井さんは豪快に笑って言い切った。
磯部温泉を歩くと石碑、道路、看板など街中に温泉マークが掲げられている。櫻井さんが着ているのも、紺地に白の温泉マークが並ぶアロハシャツ。温泉街で働く人たちが着ることで発祥の地をアピールしようと、同組合が作成した。
「観光PRしたくても、うちの組合は金がないからね。JR東日本高崎支社と連携したり、国や県の補助金を取りにいったりと苦労しているよ。知恵を絞りアイデアを考え、ほかの観光地とは違うことをしないと生き残れない」。
団体客でにぎわい、増築ラッシュも
磯部温泉の歴史は古い。起源は明らかでないが、江戸時代に浅間山の天明大噴火(1783年)により温泉湧出量が増えたとされる。1885(明治18)年に信越本線の磯部駅が開設されると、東京からの観光客が押し寄せ、当時の政財界人の別荘地として栄えた。
高度経済成長期には観光バスを連ねた団体客らでにぎわい、1990年代初頭まで同温泉の入り込み客数は右肩上がりに増えた。
上信越自動車道の開通を控えた90年、入り込み客数は38万5000人(群馬県の統計)のピークを迎えた。当時13軒あったホテル・旅館は高速道路の開通を誘客のチャンスととらえ、温泉街は増築・改築ラッシュに沸いた。
櫻井さんは高校1年生の時に父を亡くし、ホテルを継いだ母のため、早くから家業に身を投じる決心をしていた。
大学卒業後は設計事務所・設備会社で2年働き、関西の温泉地に勤めようとしたが阪神・淡路大震災でかなわず。その後、ホテルの専門学校に通いながら下呂温泉(岐阜県)で修行。20代半ばで磯部に戻り、家業を継いだのは35歳の時だった。
入り込み客数がピークを迎えたころの磯部温泉は知らないが、バブル期の景気の良さは聞き及んでいた。「当時の売り上げはすさまじく、ホテルの規模は現在よりも小さかったのに売り上げは大きかった。宴会、二次会、カラオケ、締めのラーメンまで1人の宿泊客が5万円を使うことも珍しくなかった」
観光客は右肩下がり、世界遺産に勝機
バブル経済後の90年代、個人消費の冷え込みとレジャーの多様化により磯部温泉の入り込み客は右肩下がりに減少。97年秋に開業した長野行新幹線(北陸新幹線)と、それに伴う信越線横川―軽井沢間の廃止も追い打ちとなり、98年には入り込み客が29万人を割り込んだ。
源泉跡地に人気の足湯を設けたり、新たな掘削で湧出した新源泉を利用した安中市の日帰り温泉施設がオープンしたり。磯部温泉では入り込み客減少に歯止めをかけるべくさまざまな振興策が行われ、ホテルとの相乗効果が期待された。
しかし各旅館・ホテルの経営は厳しさを増していくばかりだった。そんな中、磯部ガーデンは経営不振に陥った「磯部館」を2005年に買収、13年には「はやし屋」を買収、「桜や作右衛門」と屋号変更し、3館を運営することになった。
櫻井社長は記事の中で、磯部温泉の未来に危機感を示し、こう語っている。「このままでは温泉街が小さくなってしまう。旅館として残すことで、温泉街に人の波をつくり、磯部温泉の歴史を継いでいきたい」
2014年6月、観光客の減少に苦しんでいた磯部温泉に光明が差した。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化遺産として登録されたことで、隣接の富岡市には連日観光客が押しかけ、その恩恵は磯部温泉にも及んだ。
「500人の宿泊客が朝チェックアウトすると、昼食を取る観光客1000人がバスで乗り付けた。午後にはまた宿泊客が来館して大忙し。まさに“世界遺産バブル”だった」。
2011年に発生した東日本大震災で東北方面への修学旅行生らが行き場を失い、受け皿として受け入れた。それをきっかけに研修会やオリエンテーションの利用が増えたことに対応するため、大規模な会議室などを設けていたことが奏功した。
変更騒動で♨に注目、磯部のシンボルへ
磯部温泉は現在、6軒の旅館・ホテルが営業しており、このうち半数は櫻井さんの会社が経営している。本業のホテル経営は順調だったが、観光地としての磯部温泉の将来には不安があった。
櫻井さんが、磯部温泉復活の起爆剤としたのが「温泉マーク」だ。3本の湯けむりが描かれた温泉マークは、温泉・鉱泉を示す地図記号として誰もが知っている。
1661(万治4)年、付近の農民の土地争いに決着をつけるため、江戸幕府が評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」を出した。そこに添えられた図に磯部温泉を記した温泉マークが二つ描かれており、調査の結果、日本で使用された最古の温泉記号と判明した。
しかし、温泉マークは終戦直後に連れ込み旅館が使用したことからイメージが悪化。温泉地は積極的に使うことを避けた経緯があった。せっかくの「発祥の地」を積極的にPRできない無念さを櫻井さんは感じていた。
温泉マークを核にした観光PRも、当初は温泉街の人たちから冷ややかな反応を受けた。しかし櫻井さんは「やる」と決めた以上は後に引かなかった。
当時、磯部温泉組合の観光部長を務めていた櫻井さんは、温泉マークの湯気の部分を三つの「2」に見立て、2月22日を「温泉マークの日」とすることを発案した。同組合が日本記念日協会に申請し、歴史的事実や由来の正当性が認められて正式登録された。
「温泉マーク」を誘客に役立てようと動き出した矢先、国が東京五輪・パラリンピックに向けて、案内用図記号を見直す方針を打ち出した。
温泉マーク(♨)では外国人が「温かい料理を出す施設」と勘違いする恐れがあるとして、入浴する人の姿が入る国際規格に統一する案に、磯部温泉の関係者は「伝統を大事にしてほしい」と反対を表明。安中市や市観光協会が国に要望書を提出するなど存続への理解を求め、国際規格と現在のマークの併用が決まった。
騒動でメディアの注目が集まったことで、温泉マークの知名度は上がった。今では、Tシャツや手拭いといったお土産品、ライスを温泉マークにかたどった「温泉マークカレー」が作られるなど、磯部温泉の象徴として地元に根付いている。
「安中市を説明するとき、以前は『軽井沢近くの町だよ』とか言っていた。今では『温泉マーク発祥の町』と胸を張れるようになり、市民のアイデンティティーになりつつある。市民がTシャツを作る際に自主的に温泉マークを入れるケースもあり、こだわってやり続けたことが報われてうれしい」。
世界遺産、温泉マーク、次は2020年開業のコンベンションセンター「Gメッセ」効果を期待した。だが、新型コロナウイルス感染症が瞬く間に拡大し、最初の緊急事態宣言以降は、宿泊客の足が途絶えた。
磯部温泉旅館組合では、加盟6軒で1万人以上のキャンセルが発生。コロナ禍前の2019年度に15万8000人いた入り込み客は、20年度には6万5000人、21年度には4万2000人にまで減少、4分の1にまで落ち込んだ。
コロナ前は7割が団体客だったが、コロナ下では個人客と団体客の割合が逆転し個人客が8割になった。サービス、おもてなし、人の配置などを変える必要に迫られた。
昨年の宿泊客はコロナ前の8割ほどに戻ったが、まだ黒字化には至っていない。ただ、今年に入って団体客や外国人客も戻ってきた。
「温泉でインバウンド誘客といっても、外国では熱いお湯につかる文化がない。群馬県が目指す温泉文化のユネスコ無形文化遺産登録も追い風に、温泉文化を世界に広めるきっかけを磯部から発信したい。まずは、温泉ビギナーの訪日外国人に温泉の楽しみ方や作法を『湯作(ゆさ)』として伝えるマニュアルを作ろうと思っている」
誘客と並行して、磯部の温泉街をどう盛り上げるかも課題だ。旅館・ホテルが減っただけでなく、温泉街のせんべい店、土産物店、飲食店も後継者がいないため閉店する店が多い。
「空き店舗問題がこれからの課題。空き店舗で商売を始める人を増やし、旅館・ホテルと一緒に温泉街を盛り上げていくのが理想だが、現状は難しい。磯部温泉は信越線の駅から近いので、住むのにも適した街だと思う。まずは若い人に住んでもらうことで、街の活気を取り戻したい」。
静かな温泉街に、それぞれの活気を
閉店した空き店舗が多く見られる温泉街にあって、おしゃれな外観が目を引く酒屋「高野酒店」。昨年に老舗酒店を改装し、ケーキスタンド「タータンズ」を併設したモダンな複合店にリニューアルした。
高野酒店4代目の高野領翼(りょうすけ)さん(47)は、渡米中にアパレルのグラフィックデザインに従事し、米国西海岸で音楽活動やストリート系アパレルブランドにデザインを提供していた。
30歳で帰国後もデザイナーとして活躍。10年あまり離れていた地元に戻り、目の当たりにしたのは危機に瀕した酒屋業界と、観光客減少に苦しむ温泉街の現実だった。
「近所の飲食店の多くはなくなり、夜になると酒を買いに来た温泉客の下駄の音が消えていた。街の寂れっぷりが悲しかった」(高野さん)。
草津温泉には湯畑、伊香保温泉には石段街と、温泉街を象徴するイメージがある。磯部の魅力とは何か。高野さんは「温泉街の静けさ」と答える。
高崎市内の蔵元・牧野酒造の「マッチョ」シリーズのラベルデザイン、温泉マークのロゴや関連グッズなど。高野さん自身もデザインやアートを仕事にする中で「創作活動に集中できる環境が磯部温泉にはある」と感じている。
「クリエイターが磯部に滞在しながら創作活動に打ち込むことで、温泉街に定住する人が増え、新しいビジネスを生み出していきたい。自分の活動が、その起点になっていけばうれしい」。
長く磯部温泉の地域おこしを主導してきた櫻井さん。「私は温泉マークにこだわってきたけれど、若者を同じことで縛るつもりはない。若い世代は自分と同じことはしないで、むしろ自由にやってほしい」とエールを送る。
「考えているだけで動かないのが一番だめ。自分と方向性が違っても、若者や移住者が自分のアウトプットに対して『磯部でこんなことをやってます』と自慢してくれることがうれしい。ここは小さな温泉街。みんな知り合いで、やりたいことがあれば、すぐに意見がまとまってできる。とにかくやる。やり続けていれば、必ず結果は出てくると信じている」。
取材日:2023年6月15日
制作:上毛新聞社
執筆:上毛新聞社営業局出版編集部 石田省平、同局デジタル営業部 和田早紀
撮影:上毛新聞社DX局メディア配信部 梅沢守
「『やる』を続ければ街が変わる。温泉マーク(♨)をシンボルに活気、再び」ホテル・磯部ガーデン社長の櫻井太作さん
【湯けむりフォーラム×上毛新聞】