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映画の湯へ いらっしゃい 【第1部】 まちの湯
ここは極上の湯がある群馬県。熱源から湧き出る⼒強いコンテンツが魅⼒の湯けむりフォーラムで、映画にまつわる2つの湯をお届け。まちの映画館は銭湯と共に発展し、そして消えていった・・・とは、業界内でよく語られる背景です。人々が集うのが銭湯であり映画館でした。一日の汗を流し体ごと温めるお湯にも、世界中のどこへでも行けて誰にでもなれる映画にも、心を温め、癒し、明日への力に繋がる力があります。
銭湯も映画館もコミュニケーションの場であり情報発信の場となり、地域のコミュニティとして大事な人々の日常を見守る存在でもありました。まちの銭湯に一つとして同じ湯屋はありません。お風呂があることは同じでも、それぞれの特徴や名物がありました。
ミニシアターも同じです。映画を上映することは同じでも、それぞれの特徴や名物があります。日常的に映画を見る場所として生まれた群馬県内二つのミニシアターの魅力と温かさをお伝えする場にできればと思います。
内藤 聡(以下 内藤):みなさまおはようございます。いつもですとこの時間僕は放送してるんですけど、いつもなら朝、ボンジーヤという挨拶をさせていただいてまして、みなさんボンジーヤ!
会場:ボンジーヤ!
映画への熱量
内藤:ありがとうございます。今日はよろしくお願いします。司会を務めさせていただきます、FMぐんまの内藤聡と申します。湯けむりフォーラム初めて参加させていただきましたが、昨夜からこの草津温泉に浸かりながらゆっくりと自分の時間を満喫できるっていうのは幸せだなって思ったりします。映画を観る時間っていうのも、その時間を必ずキープして他のものを全く邪魔させない自分だけの世界みたいな、そういうものは温泉と共通のものもあると思ったりもしますけれど、今日はその映画の世界にゆっくりと浸かっていただきたい、そんなお時間であります。すでにスタンバイしてくださっているお二人をご紹介させていただきます。「前橋シネマハウス」から日沼大樹支配人ですよろしくお願いします。
日沼 大樹(以下 日沼):「前橋シネマハウス」の日沼と申します。普段あまり面白い男じゃないんですけど、今日は内藤さんに面白くしていただきたいと思って、みなさんに楽しんで帰っていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。
内藤: お爺さんから映画の世界を代々引き継いでいるというか、そのご関係の方でいらっしゃいますが、途中で野球に走り、映画が嫌いになり、色んなことがあった中で映画の世界に戻ってきた。それらを含めて今日はお話いただきたいと思っています。よろしくお願いします。
日沼:よろしくお願いします。
内藤: そして「シネマテークたかさき」の小林栄子支配人でございます、よろしくお願いします。
小林 栄子(以下 小林):よろしくお願いします。
内藤: 映画の世界に入られてもう何年くらいになりますか?
小林:もう・・20年近くなります。
内藤: この会場に入る前にパネルがいっぱいあったと思うんですね。そのパネルには手書きで書かれた新聞がありましたが、そこには韓国映画の情報がずらり。あれを作ったのは小林さんでいらっしゃる。「シネマテークたかさき」では韓国映画の比率が高かったりするんですか?
小林: 全国のミニシアターの中では韓国映画多めだねって言われますけど。
内藤: なぜならば小林さんが、韓国映画が・・
小林: 大ファンです。
内藤: 好きなんですよね。一番最初に韓国映画にハマったのって何だったんですか?
小林: 2008年の『チェイサー』というナ・ホンジン監督の連続殺人犯を追う元刑事の追跡劇の話なんですけど、こんなに熱量の高い映画があるんだっていうのが衝撃を受けまして。
内藤: その映画にハマったことで、韓国映画の紹介を自分の新聞で作ろうと思われたんですよね?
小林: そうですね。自分が知りたいことがいっぱいあって。なんでこのシーンはこういうことができるんだろうとか、お酒飲む時になんで顔をそむけるんだろうとか。
内藤: なるほど。
小林: 韓国文化の事もそうですし、描き方も面白かったですし、役者さんの熱量というか、圧倒されるものがあって。どうしてこの人たちはこんなに上手いんだろう、引き込ませてくれるんだろうみたいな疑問を解消したいために色々情報を集めていったら、書けそうだなというか、知ってほしいなって思いまして。
内藤: それで書き始めてもう100枚を越えてるんだそうです。今日はその中から選ばれた20作品の新聞が飾られている。この冒頭の3分くらいで小林さんの韓国熱がみなさんに伝わったと思うんですよね。韓国映画これほど好きなんだと。映画ってすごいなと・・ちょっと待ってくださいよ・・日沼さん・・熱量が来てないですよ!
会場:(笑)
日沼: いやいや押されてですね。
内藤: 日沼さん、群馬県には2つのミニシアターがある。このミニシアターの存在というのを今回の湯けむりフォーラムでもちゃんと定義したいなと。みなさんにも捉えていただいたいなと思って今回やってる。そうなってくると、それぞれのお二人のルーツだったり、あるいは群馬と言えば温泉ではあるけれども、群馬と言えば映画なんだよっていう位置付けを改めて紐解きながらやっていきたいと思いますが、「前橋シネマハウス」のこだわりっていうのはどうですか?
日沼: そうですね、あんまりジャンルとかそういうのでこだわってるわけじゃないんですけど、私が映画業界に入ったきっかけというところで、お客様に映画で何かを伝えたいとか、考えてほしいっていうのがあったんですよね。入ったきっかけ自体が社会派の、社会問題を扱った映画から映画業界に入ったということもあったので、考えて知って感じてほしい。だからそういう映画がシネマハウスは結構多めかなとは思っています。
内藤: 選び方としてそういう作品が多くなってしまう。
日沼: そうですね。
優れた映画を観客まで届ける
内藤: お二人とも、上映する映画の選び方って違うと思うのですが、選ぶ作業って大変な作業ですよね?
日沼: そうですね。前橋シネマハウスでもすごい数の紹介が来るので・・
内藤: ちなみにどれくらい来るんですか?月にしてみたら。
小林: 毎日のように電話が来ますよね。映画作ったんで見てもらえませんか?みたいな。
日沼: ほぼ毎日、電話、メール、手紙ですね。
内藤: そういう感じなんですか。観てください、良かったら上映してください。
日沼: はい。・・観れないですよね。
小林: 本当に多すぎて物理的に見切れないっていうのが全国のミニシアターの悩みで。内藤さん、今日本で公開される映画の本数って、年間何本くらいだかご存じですか?
内藤: ・・どうですかみなさん?・・2万本。
小林: (笑)そんなにない。去年が1,112本だったんですよ。
内藤: 上映された本数?
小林: はい。そのうちの何本くらいがミニシアターで公開されているかっていうと、その50%がミニシアターでしか上映してない。
内藤: 半分以上がミニシアターでしか上映できてない?
小林: はい。その中で500本って全部かけられないわけですよ。物理的にも。
内藤: そう考えたら、今日第二部の方では映画監督さんもご登壇されますけど、作った映画が上映されないって・・本当たまらないっすね。
小林: そうそう。観てもらうために映画を作ってきたのに、結局受け皿がないっていう状態になっていて。
内藤: それ、大問題じゃないですか?
小林: 大問題です。12月頭に読売新聞の一面にも書かれてましたけど、一つの大ヒット作がスクリーンを占領してしまっている。
内藤: ヒットする映画があることが、映画が注目されるってことには良いことではあるけれども。占領されてしまうがゆえに上映できない作品が溢れていると。
小林: そうなんです。
内藤: ミニシアターがその年上映される映画の半分を支えている。ミニシアターの大事さってものは、日沼さんも同じですよね。
日沼: そうですね。うちは今ほぼワンスクリーンで、年明けから2スクリーンで使いたいというのはあります。機材を入れ替える予定なので。それで受け皿を少しでも広げていければと思っています。
内藤: 昔の銭湯は人が集っていた場所なんですってね。みんながそこで情報交換をして、同じく映画館もそこに人が集って色んな情報を発信しようと。ミニシアターってそういうぬくもりがあるんだよな。シネマコンプレックスももちろん素晴らしいし、そこで何万人動員してるっていうのも素晴らしいんだけど、ミニシアターがどれほど大事なのかがこの問いで示されたのは大きいなと思うんですけど。
ここに泉あり
内藤: 歴史を遡るとですね、地方映画の先駆けと呼ばれているのが今井正監督の『ここに泉あり』という1955年の作品。映画会社のスタジオで映画が作られていた時代に外に飛び出して撮ろうと。そのベースになっているのが群馬交響楽団、昨日も「湯けむりフォーラム」で演奏された群響でございます。子どもたちにもいい音楽を伝えたい、という思いがあの映画でも描かれている。この『ここに泉あり』はお二人のきっかけになった作品でもある?
日沼: そうですね。聞いた話なので直接関わったわけじゃないんですけど、私の祖父が『ここに泉あり』の製作委員会の事務局長をやっていたということで、もう亡くなっているんですけど。製作時に前橋市の映画サークルの会長をやっていたらしいんですよね。
内藤: 前橋の映画サークルというのはどんなものなんですか?
日沼: その当時、70年から80年前は映画くらいしか娯楽がなかったらしいので、会員数も2万人から3万人くらい・・
内藤: 2万人?
日沼: そのくらいいて、みんなで映画を観て語り合おうというのをやっていたみたいです。そこで『ここに泉あり』の製作を・・まあ言ってみればお金が足りなくなったのでお金集めを手伝ってほしいみたいなところからはじまって、製作に携わったらしいんですよ。そうしたら全国的な大ヒットになってしまって・・
内藤: 大ヒットって言っても半端ないですよね。地方映画にしたら凄い人数なんでしょ?
日沼: すごいらしいですよね。300万人とか400万人とかそういう世界だったみたいですよね。で、会社を作って、「群馬共同映画社」っていう会社の設立をして、そこから群馬県の映画製作とその映画を群馬県で広めていく。子ども映画とか、小学校・中学校・高校の上映会を県内に広めていく活動をしていったという話なんですよね。
内藤: お爺さまが立ち上げて、お父さまが色々な学校に上映に行ったりして。そうやって文化を広めていったわけですが、その上映会の中で小林さんもいた。
小林: そうですね。多分ですけど、小学校の体育館で観たような記憶があるんですよね。列車の到着シーンがとにかく衝撃的で、あんなに一車両に・・窓から顔が・・満員電車どころじゃない。あんなに乗せて良いんかみたいな。あとリアカーに楽器を乗せて、リアカーで学校に行って、市民楽団が音楽を届ける。
内藤: 僕も、すごく残ってるんですよね。いつどこでって言われると体育館だったかな・・小さい頃に観てるんですよね。その映画を上映してくださったのは、もしかすると日沼さんのお父さんかもしれない。
日沼: そうですね。
内藤: 地方映画として300万人動員するようなそんなビックヒットになる作品でありながら、そういうものが先駆けになって、まさに草創期ですよね。
映画に携わるきっかけ
内藤: 小林さんはその映画を観た時から、映画ってものがスッと入ってきたわけでしょう?映画の世界に入るとか思ってました?
小林: 全く思ってなかったですね。
内藤: 小林さんは映画の世界に入って、今はシネマテークたかさきの支配人でございます。どういうルーツなんですか?
小林: 私、中学生の時に大林宣彦監督の『ふたり』という映画が大好きで。今の高崎電気館、当時の松竹電気館に友達と3人で観に行ったんですよね。お客さん誰もいなくて、私たちだけで。そういうことも想い出ですし、貸切で観たのが。それが翌年の3月に「高崎映画祭」っていうのがあって、高崎市文化会館で『ふたり』が上映されるっていうのを知って、もう一回観られるならぜひ行きたいって、別の友達を誘ってまた行って、もちろん映画に感動して、今度はほぼ満席みたいになっていて(笑)
内藤: 「高崎映画祭」なので、ほぼいっぱいで?
小林: はい。その後に館内アナウンスが流れまして、この後授賞式がありますのでそのままお待ちくださいって。授賞式って何だ?みたいな。全然知らなくて。半分以上帰っていくんですよ。よくわからないけどとりあえずいてみようかなと思って。見てたら、さっき観た映画の主演の女優さんとか、お母さん役の富司純子さんとか出てきて・・
内藤: それは感動しますね。
小林: え!と思って。ここ高崎だよ!って。映画の中の人が何で?って。
内藤: 純粋な感動ですね。
小林: 知らなかったのが良かったんですけど。で、監督は来なかったんですよ。やっぱり監督はすごい人で、高崎なんかには来ない人なんだって。
内藤: めちゃくちゃ高崎ディスりますね(笑)
小林: ・・と思っていたら最後に、いやいやごめんなさい遅れちゃってって大林監督いらっしゃったんですよ。あ、いらした!と思って。寝坊しちゃってねーって言って(笑)。それがすごい感動的で。「高崎映画祭」って何だろうと思って、その次の年から毎年チェックして観ていった。数は少ないですけど気になる作品をチェックして観たりする中で、映画祭はボランティアで運営されていることを知りまして、ボランティアだから私もなれるのかなと思って、事務局に手紙を出したんですよ。ボランティアになりたいって。
内藤: そこの手紙の一歩でかいですね。
小林: 映画祭に興味があって、その中でスタッフとして作業していく中で、映画館を作るっていう話が・・もともと映画館を作りたいという話は、映画祭を始めた先代の茂木正男が映画館を作りたかったそうなんですよ。2000年過ぎたあたりから映画館を作るという構想が本格化しはじめまして、当時代表の茂木から、小林仕事辞められるだろう?って簡単に言われて(笑)。映画館を作るなんて人生でも絶対にないので。そんな経験ができるならって飛び込んで、今に至る感じです。
内藤: 日沼さんはそもそもは野球少年だったんですよね?
日沼: そうですね。小学校の時から野球だけで甲子園に行くために人生を捧げたと思ってます。
内藤: 打順何番ですか?
日沼: 2番でした。農大二高で。
内藤: 本格的ですよ。そういう時に映画っていうものは嫌いだった?
日沼: 嫌いじゃないですけど・・小さい時は映画の道に行くんだろうなって・・お爺ちゃんお父さんこういう仕事をしてるから、自分も映画の仕事に就くんだろうなってずっと思ってて。ただそこから離れるきっかけがあって。小学校5年か6年の時に『眠る男』っていう映画ができたんですね。群馬県で作って、県内の全部の市町村で上映をしていく。その上映をしていたのが父親で、日曜日は毎回映写の手伝いで行ってたんですね。その当時35ミリのフィルムを回していたので、フィルムが20分とかで一回巻き上がるんですよ。それを外して違う方で移し替えるんですけど、終わった方を巻き取る仕事とかをずっとやりながら、『眠る男』を小学校6年生が多分100回近く観たんですかね。それで最後、群馬会館で2日間で5~6回やった時に、最後、これはダメだと。映画館は俺は無理だと思って、これはもう野球一本でいくしかないと思ったんですよ。そこからほぼ映画を観ないでずーっと大学まで。
内藤: 1996年の小栗康平監督の『眠る男』ですが、とても難しい作品ですよね。でも何かのきっかけで映画に戻ったんですよね?
日沼: そうですね。もともと太田市で専門学校の職員をして、色々高校とか専門学校で資格試験の勉強とか教えていたんですよ。
内藤: 先生だった?
日沼: そうですね。ちょうどその時祖父が末期がんで余命がほとんどない時に呼ばれて、長男だし、映画の仕事を継いだ方が良いんじゃないか?みたいな感じで言われたんですよね。お爺ちゃんに言われたらやるしかないかなって思いながら、当時社長だった父親に話したら、辞めときなさい、って言われて。
内藤: お父さんは辞めておけと?
日沼: 親戚一同、だめだよやっちゃ、って言われて。
内藤: 何で駄目なんですか?
日沼: 昔は儲かったけど今は儲からないよみたいな。親戚一同から総スカンくらったんですけど、お爺ちゃんがもう亡くなっちゃうし、最後の願いだからやるしかないかなっていうので・・その当時は映画館をやるっていうのじゃなくて、県内での上映活動、それからちょっと映画製作をやってる感じだったんですよね。その中で、前橋市から、今のシネマハウスの施設、元気21の施設が前橋市の施設なので、ずっとクローズになっている映画館を復活させてくれないか?っていう話が多分2016年くらいに来たんですよ。出来るわけないだろうってことで、最初からずーっとお断りして、私も映画業界に入ってすぐだし、映画館でアルバイトもしたことないし、映画業界のこともほとんど知らない状況でそんなことは出来ませんよってずっと断ってたんですよね。
日沼: そんな中で2016年の暮れから2017年にかけて、1つの映画を県内でやっていこうっていうのを自分が決めて。その映画が呉美保監督の『きみはいい子』っていう映画なんですよね。3つくらいのオムニバスになってるんですけど、1つの町の中で起こり得る社会問題、誰でも当事者になる社会問題を扱ってる映画なんですよ。いじめの問題もそうだし、子どもの虐待とか認知症とか、独り身の独居老人とか障害を持つ子どもとその親、そういった人たちと地域との繋がりを描いた映画で。私ちょうど長男が産まれるタイミングだったんで、観てて、これすごい良いし、色んな人たちに考えてもらいたいなーと思って、社長だった父親に、これ県内でやりたいよって話をしたら、こんな難しい映画出来るわけないよって言われたんですよ。
内藤: お父さんに?
日沼: そうなんです。でもこれ本当に良い映画だからどこかでやってみようって群馬県内色々行ったんですけど、無理無理って言われた中で、渋川市の子育てボランティアとかを色々やっている女性の方々が20人くらい集まって、いやこれ渋川でやろうよ、頑張ろうよ、って言ってくれて、前売り券を売る作業から色々やってくれたんですよね。で渋川の文化会館で1日2回だけ上映したんですけど、それが1,400人入ったんですよ。これすごいなってなって、そこから県内色々から話が来て、群馬県の児童相談所とかそういったところも、今年講演の予定だったけどこの映画がすごいっていうんで、講演と一緒にやらせてもらいたいとか。群馬県内多分10何か所か上映して、1年半くらいで14,000人くらい入ったんですよね。映画ってすごいなって思って。
内藤: 映画ってすごい。
日沼: すごいって思って、ずーっと断ってたんですけど、その熱い気持ちのまま前橋市に、やっぱり映画館やりましょう、って言いに行っちゃったんですよ。
内藤: 今回はご自分で行ったんですね。
日沼: 行っちゃったんですよね。その時はすごい熱い気持ちがあったので、こういう映画を上映する場所がなきゃ駄目だと思って。そしたら二つ返事で、やりましょうっていう感じで話が進んで。それが2017年の秋くらいですかね。小林さんにもご挨拶に行って。これから色々お世話になりますが色々教えてください、って。
2つのミニシアター紹介
内藤: 「まえばしシネマハウス」の特徴を教えてください。
日沼: 「まえばしシネマハウス」は、前橋市の元気21というところにあります。映画館は3階にあるんですが、エレベーター出て劇場が目の前ですね。さっき小林さんが韓国映画の解説を作っているっていう話があったんですけど、シネマハウスはその時上映している作品のポップなどを全部作って掲示しているので、これも結構人気で見ている方が多いですね。それから、2スクリーンあって今メインで動かしているのがシアター0(ゼロ)というところで116席あります。シアター1の方は2023年から使う予定です。
内藤: 2つスクリーンが動き始めるとまた広がりますね。
日沼: そうですね。企画で色々やっていこうかなって思ってます。
内藤: 続いては「シネマテークたかさき」ですが小林さんご説明お願いします。
小林: 「シネマテークたかさき」は2004年12月4日にオープンしまして、今年で18周年を迎えました。外観を見ていただくとちょっと薄暗い感じの映画館で(笑)。スクリーン1は58席座席がありまして、2004年のオープン当初はこちらのスクリーン1のみで上映していましたが、2007年に2階のスクリーン2を増設いたしまして・・
内藤: そうなんですね。
小林: はい。最初は2館でやる予定だったんですけど、改装費があまりにもかかってしまってとりあえず1館からスタートしまして、スクリーン2は64席の劇場です。2を作ったきっかけとしては、新潟の長岡市で3館やっている映画館の2館が閉じるというので、映写機を安く譲ってくれるというので譲ってもらったんですけど、その映写機が結局使えなかったという・・
内藤: (そういう話が)ちょくちょく出てきますね。
小林: (会場の壁に映写されている映像を示し)これ2階の、使えなかった映写機じゃない映写機です(笑)。まだ現役なんですが上映する映画がない。2022年の7月に久しぶりに35ミリフィルムでマレーシア映画の『タレンタイム』という映画を上映しまして。高校生3人組が観に来てくれて。初めて35ミリフィルムを観たと。
内藤: そうか、今35ミリフィルムをかけることがないんですね。さっき日沼さんもフィルムを巻き取る話をされてましたけど・・
日沼: 2つで回すんですけど、今映ったのが多分ワンリールとかですよね。もともと分かれていたやつを上映前にワンリールに巻いて上映するんで上映中に巻き取りとか多分ないと思うんですけど。父親と行った時って35ミリとかが常設されていないところに35ミリの映写機を分解して全部持っていって、仕込みで組み立てるんですよ。映写機を2台組み立てて。
内藤: やっぱりフィルムの良さってものはありますか?
小林: やっぱり感動しますよね。黒の色の深さというか・・一緒に観た映写の方が、髪の毛の一本一本まで見えるよねーって。
日沼: 35ミリは色合いが全然違う。暖かいっていうか。祖父が作った『時計は生きていた』という前橋空襲の映画を夏にシネマハウスでやってて・・フィルムが本当古いのでちょっとぼやけちゃったりするんですけど、色合いとかが凄い良いんですよね。雨が降っちゃって・・雨が降るってわかりますかね?傷が出来てバーっと出ちゃったりもするんですけど、切り替えのところで。それもまた良いなっていう。
内藤: 全部味になるっていうね。
ミニシアターへ行こう!
内藤: 第二部は監督さんもいらっしゃいます。映画を製作している側の話を色々聞けると思いますけど。映画っていうのが、上映する側、見ていただく側、または制作陣の思いとか、これ全部が一つにならないと映画見れない。さっきの話じゃないですけど、年間1,000本以上の作品が生まれて上映されていない映画がある。この上映されてない映画たちって成仏できるんですかね?
小林: 行き場がなくなってしまっているのは、本当に深刻で。東京でも、公開されてもすぐ終わっちゃう。次の映画やらなきゃいけないから。
内藤: 上映期間も短くなると。
小林: はい。本当にいい循環じゃないなって。観る方も大変だし、上映する方も大変だし、作る方も結局届けられずに終わっちゃう。作られる作品は多くなってきましたけど、届けられない作品があるっていうのは、流れを変えていかなきゃっていうのはありますね。
内藤: この流れっていうのは、だいたい何年前からですか?
小林: シネマテークがオープンした2004年は洋画と邦画合わせて600本だったんですね年間公開数が。2013年頃から急増しまして1,200本なんですよ。
内藤: なんで急増したんですか?
小林: デジタル化なんですよね。
日沼: 機械が変わって誰でも映画を撮りやすくなった。だから伝えたいことを伝えようとする監督さんとかが製作ができるようになってきた。昔の金額とは全然違うところでできるようになってきたので、すごく良いことだとは思うんですけど、興行がなかなか追いつかないっていう。入らないけどこの映画頑張ってほしいから長くやろうっていう気持ちもあるんですけど、そればっかやってると今度は映画館自体が潰れちゃったりっていうことにもなってくるんで。
内藤: 今もしかしたら変革期に来てるのかもしれないですね。2013年くらいに倍くらい増えた、それも転換期。いま飽和状態になっているタイミングでこっから何か映画の中で革命というか、何かが動き始めないといけないタイミングが来てるのかもしれないですね。
内藤: コロナ過の中で映画館て大変な思いがあったんです。大変なことになった時に「ミニシアター・エイド」っていう動きが全国で行われました。その時の話も聞きたいんですけど。クラウドファンディングで全国で動かれて。
小林: はい。これがなければ本当に潰れてましたねっていう。
内藤: 日沼さんところも大きかった。
日沼: 大きかったですね。あの当時4月から2か月間くらい、うちは閉めたんですよ。ちょうど前の日に山本知事の記者会見があって、じゃあ映画館を閉めようかっていうんで閉めて。その間ですよね「ミニシアター・エイド」。休館の間に立ち上がって、最初目標が1億円っていうことで、どういう目標設定?みたいな感じで言ってたんですけど、あれよあれよと言う間に一ヶ月で1億どころか最終的には3億円ですね。
内藤: 全国の応援しようよっていう思いが・・僕も微々たるのもですがやりましたけど、SNS上でもみんなが拡散して、ミニシアター救おうよ、この文化をなくしちゃいけないよって動きがあって。その後に「ミニシアターパーク」ということで、今度は俳優のみなさん達が応援する場というのが生まれたそうなんですね。本当にあの時っていろんな形で関係者がなんとかしたいっていう思いがあって。その思いで繋がったんですよね。この文化なくしちゃいけないんだっていうのが物凄くあの時代に動いた。コロナだからこそ見つめ直されたっていうものが絶対にあったように思います。さあ、ここからミニシアターのビジョンをそれぞれお聞きしたいと思います。
小林: これからの映画を支えてくれる未来の観客に振り向いていただけるように、映画館体験をしていただけるように、工夫をしていきたいなって思ってます。
日沼: 同じく未来の子ども達にですね、映画館を、知ってもらうだけじゃなくて映画体験をしてもらうっていうところで、春から子ども達のシネマクラブみたいなものをシネマハウスで作って、子ども達が来やすい環境を作ったり、お父さんお母さんが映画館に連れて行きやすい環境を作ったりとか、保育園とかの散歩の時間を使って団体鑑賞ができるような体験も作ったりとか、不登校の子達が映画を通じてコミュニティを作れるような場所を作ったりとかっていうのをこの春からやりたいと考えています。
内藤: こういう前向きな情報が出ていくのは非常に良い気がしますよね。それが県のイベントで皆さんに伝えられて非常に意義があるなと思います。映画僕も大好きですし、皆さんお好きな方いっぱいいると思いますが、お子さんと一緒に行くとか、自分たちが行ったものをこういう空気が良いよねって伝えられるかどうかは、僕等大人の責任なのかなと思ったりもします。ミニシアター群馬に2つあります。これって誇らしいことで、フィルムコミッションも群馬県内に10数か所ある。またこれから色んな作品が群馬から生まれてくることを非常に楽しみだなと思いながら、そろそろお時間になりました。ありがとうございました。
日沼: ありがとうございました。
小林: ありがとうございました。
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ライター: 合同会社岡安映像デザイン 岡安 賢一
群馬県中之条町生まれ・在住。日本映画学校映像ジャーナルゼミ卒。伊参スタジオ映画祭実行委員長。群馬県の「ぐんま狩猟フェスティバル」のドキュメンタリー映像や、中之条ビエンナーレの映像アーカイブ等に関わり、デザインやライティングも行う。https://note.com/oka
撮影: 薄井 良隆
群馬県草津温泉に在る「ミヤマ写真館」の次男として生まれる。小学校でスキージャンプと出会い、大学卒業までノルディック複合の選手として過ごす。その後写真館業の傍ら「café Uusi」をオープン、数年間の海外放浪、旅館経営を経てフリーカメラマンとして現在に至る。
登壇者
日沼 大樹 前橋シネマハウス支配人
前橋市出身。2015年に群馬共同映画社入社。2018年に前橋プラザ元気21内の旧映画館施設を再利⽤、市と共同で前橋シネマハウスをオープン。現在まで⽀配⼈。
小林 栄子 シネマテークたかさき 支配人
高崎市出身。2001年、第15回高崎映画祭よりボランティアスタッフとして参加。2004年のシネマテークたかさき立上げより携わり、開館時から副支配人。2014年より現職。