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【熱源な人】ものづくりの街・桐生で伝統の先に革新を生み出す刺繍アクセサリーブランド『000』マネージャー・片倉洋一さん

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道なきところへ一歩を踏み出し、自分の道を切り開いた人の心には、ふつふつと湧き立つ熱がある。黙々と働くあの人の中にも静かに宿るその熱が、社会を変え、未来をつくる原動力となる。湯けむりフォーラムでは、群馬において様々な分野で活躍する人々にフォーカスし、その動機や、これまでのストーリーを深掘りして伝えていきます。その人自身が熱源となり、誰かの心を沸き立たせるきっかけとなるように。

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桐生は日本の機(はた)どころ――とは、群馬県民なら誰しも聞き覚えのある「上毛かるた」のフレーズ。街全体が織物と歴史を歩んできた桐生市で140年続く株式会社笠盛、帯づくりの織物業から創業した会社は、長い歴史の中で培われた伝統に、新しい技術と自由な発想をプラスし、「刺繍で球を形づくる」というこれまでにないアクセサリーブランド『000(トリプル・オゥ)』を生み出し、育ててきました。

ブランドの立ち上げを主導したのは、テキスタイルデザイナーで現トリプル・オゥ事業部ブランドマネージャーの片倉洋一さん。英国でテキスタイルデザインを学び、パリのオートクチュールメゾンなどで働いたのち笠盛に入社しました。既成概念に捉われず、大胆な発想で老舗の挑戦を牽引してきた片倉さんに、ヨーロッパでの学びと仕事、ものづくりについての考え方など詳しくお話を聞きました。

工学部から一転、英国の美大へ

片倉さんは神奈川県秦野市出身で、実家は農家。数学が得意だったこともあって、大学はごく自然に工学部に入り、人間工学やシステムデザインを学んでいた。

転機となったのは、大学三年で初めてアメリカへ出かけた時のこと。留学中の知人を訪ねて刺激を受け、海外で学ぶということに強く惹かれた。

「何がやりたいのかも漠然としたなかでこのまま大学を卒業して就職するよりも、見たことのない世界を追い求めてみたいと思いました。それで、何を専攻するかを考える前に、海外に行くぞということは先に決めちゃったんです」

ちょうどそのころ、テレビでAppleの”Think different”のCMが流れていた。異なる視点で物事を見る人、はみ出しものや反逆者、クレイジーと言われるような人たちこそが世界を変えるという力強いメッセージ。

「衝撃でした。コピーもビジュアルもすごくよくて。グラフィックデザインかっこいいなと」

各界に影響を公言する人も多い、広告史に輝く傑作に心を動かされ、グラフィックデザインを学ぼうと決意。ロンドンの美大へ進学することとなる。

テキスタイルの世界で、自分らしさを探して

入学した大学ではまず初年度に基礎コースでデザインとアートを幅広く学んだ。グラフィック、プロダクト、ファッション・テキスタイル、ファインアート。色々やってみるなかで、グラフィックデザインから急カーブして「これかも!」と感じたのはファッション・テキスタイルデザインだった。小さい頃から母がニットやキルトをやっているのを見ていて、面白いなと感じていたというから、自分の中に眠っていた感覚に、手を動かすうち気がついた、ということなのかもしれない。

ファッションを専攻し、学んでいくなかで「服をつくる素材からこだわりたい」という思いから、興味はテキスタイルへと引き寄せられていった。アイデアだけではできない、手がないと作れない、人が関わる部分がたくさんあるところにも魅力を感じた。

ところで、入学したばかりのころ、その後のものづくりの考え方に大きな影響を及ぼす出来事があったという。

「入学初日の最初の授業に、『自分を表現する箱を作ってきなさい』という課題が出ていたんです」

箱であって自分を表現していれば何を作ってもいいというもの。それを各自がクラス全員の前で順番にプレゼンテーションしていく。片倉さんは「最初からナメられちゃいけないと思って」かなりの時間をかけて作りこんだ作品を持参した。だが、なかには明らかに道から拾ってきたんじゃないかという人もいれば、やっつけでつくったなという人もいる。

「そういうものも理屈というか、考え方が通っていればそれでいいと、評価されるんですよ。自分の中ではデザインの学校って、かっこいいもの、きれいなものを作ることがゴールだと思っていたんですが、そうじゃないんだと。自分らしい生き方を見つける、自分らしいアプローチを探すことが大事なんだと。初日から考えを覆されちゃって、衝撃でした」

学校では自分の強みとは何なのかを意識しながら制作を進めた。

「自分よりも絵がうまい人はたくさんいる、そのなかで僕にしかできないアプローチってなんだろうって考えたときに、アート系の人たちはみんな数学がめちゃくちゃ苦手なんですね、工学部出身の人間としてはそこを活かせるんじゃないかと思いました。なので、エンジニア的な要素をテキスタイルやデザインと組み合わせるというのがテーマとしてありましたね」

在学中、片倉さんが「世界で一番クリエイティブなテキスタイルをつくるメーカーだと思います」と語るスイスの企業「ヤコブ・シュレイファー」で3ヶ月間働いたこともあった。100年以上も前から美しいレースを作っていた老舗で、伝統的な部分は残しつつも積極的にテクノロジーを取り入れることによって革新的な生地を生み出し、超一流のブランドを顧客に抱えていた。

「ピンポン玉がぶらさがっている生地なんかもあって、こんなに自由な発想でものづくりをやっていいのかと。社長兼クリエイティブディレクターであるマーティンの新しいことにトライしていく姿勢も含め、大きな影響を受けました」

DNA構造を糸によって表現したラリエット(留め具のない紐状の装身具)。トリプル・オゥで最初に誕生したアクセサリー。

パリ、オートクチュールの世界へ

大学卒業後、どこまで自分のクリエーションが通用するのか試そうと、ファッションの中心地パリを目指した。

仕事を探すにあたって、当初はパリのメゾンにロンドンから作品を送っていたが、断りの手紙ばかりが返ってきてなかなか先に進まない。それならと、とりあえずパリに行ってメゾンに直接電話をかけ、「今パリに来てるんですが、時間があればポートフォリオを持っていくので会ってください」と伝えることにした。

「これなら『じゃあ時間あるから見ようかな』となるじゃないですか」

押すべきところは強引に、思い切った行動が功を奏し、オートクチュールメゾン(最高級のオーダーメイド服を制作するブランド)「ドミニク・シロー」での仕事を得る。

オートクチュールのアトリエは、上質な素材を熟練の職人が全て手作業で服を仕立てていく、欧州服飾文化の極致とも言える世界だ。刺繍に関しては、多くのデザイナーが全幅の信頼を寄せるオートクチュール専門の刺繍工房「メゾン・ルサージュ」がある。あらゆる素材を用いてデザイナーのイメージを形に変える、最高峰の手仕事だ。「すごいものを見せてもらっていました」と片倉さんは当時を振り返る。

それにしても、勢いのままに駆け出した海外で未知の分野を一から学び、第一線で働くところまで怒涛の日々に感じられる。困難はなかったのだろうか?

「留学前はテキスタイルという言葉も知らなかったんですけど」と笑いながら、「自分がこうしたいという想いの方が勝っていたのと、やらないと生き残れないという状況で、大変だと思う余裕がなかった。それがかえって良かったと思います」と答えてくれた。

その後片倉さんは、森英恵さんの引退前最後のオートクチュールコレクションに携わることになり、制作が行われる日本に戻って仕事をすることになった。桐生とつながるきっかけはこのころ、桐生出身の世界的なテキスタイルデザイナー・故・新井淳一さんのもとを訪れたことだった。

「イギリスにいるときから『日本の桐生市に凄いテキスタイルのマスターがいる』という話は聞いていて、現地の美術館で作品を見て衝撃を受け、ぜひお会いしたいと思っていました」

帰国してほどなく新井さんのもとに押しかけると、県立美術館で行われた展覧会の準備や、アトリエでの製作を手伝う機会にも恵まれた。新井さんの仕事も、片倉さんのクリエイションに大きな影響を与えている。

「新井先生は自らコレクションする民族衣装などもインスピレーションにしながら、80年代からコンピューターも使って、技術も研究して、クラフトとテクノロジーが融合した新しい表現をされていた。華美な柄や装飾ではなく、素材の良さやテクスチャに惹かれてしまう。ヨーロッパにはあまりない感性かもしれません」

桐生・笠盛へ、ブランド立ち上げの挑戦

笠盛に興味を持ったのは、レーザーカットができる刺繍の機械を持っていると知ったからだった。当時はテキスタイルのクリエイションでレーザーカットを用いることは珍しく、「この会社ぶっ飛んでるな」と感じたという。

代表と会って話してみると、ちょうど海外に出した刺繍工場がうまくいかずに閉めたところで、その反省から「国内でしっかりとしたものを作って世界に売っていきたい」と考えているところだった。まさに片倉さんの経験を生かせそうな状況だ。

日本の服飾業界は企画・デザインと生産とが分断された分業制が主流だが、片倉さんには生産設備のある会社で企画・デザインをやったほうが良いものづくりができるはずという思いもあった。

様々な要素がかみ合い、偶然か必然か、引き寄せられるかのようにして片倉さんは笠盛に入社する。2005年のことだった。

2020年に増設された新工場「KASAMORI PARK」ここでトリプル・オゥが作られる。

「当時は企画室や開発室のようなものはありませんでした。入社後3か月の現場仕事を終えてからは、自分で自分の仕事づくり。最初は商品サンプルのためのハンガーのデザインや、笠盛のロゴを考えたりもしながら、商品開発を進めていきました」

新しい機械を買うほどの予算は無い、会社にあるリソースを使って、あとは頭をどう使うか。まず、2006年に独自技術の「カサモリレース」を開発。刺繍の会社としてこれまでは生地を預かって加工だけを行っていたが、生地そのものを作らなければと考えてのものだった。パリで開催された世界最大のテキスタイル展示会「ModAmont」に出展すると、これが高い評価を得る。一流ブランドも製品に使ってくれた。

ただ、パーツとしての販売だと、単価や輸出コストを考えた時、事業として成立する利益を出すのが難しいこともわかった。やはり自分たちで値付けができるプロダクトが必要だという課題が明確になってきた。

トリプル・オゥの誕生

ブランドを象徴する球状の刺繍アクセサリーは「シルクでパールのネックレスを作りたい」というアイデアから生まれた。刺繍を装飾性から解き放ち、それ自体で構造を作るというのは、工学のルーツと、それまで重ねてた経験から導き出した、いかにも片倉さんらしい発想だと言える。

笠盛はもともと絹織物から始まった会社で、三代目の時に、絹の代わりにレーヨンで作った着物帯を大ヒットさせた歴史がある。新しい感覚で、質が良くてリーズナブルなものを、多くの人に届けることは「笠盛らしさ」でもある。

制作技術の面では前例がなく、当初は社員全員が実現不可能と答えた。しかし、実現できれば絶対に良い物になるという確信があった。

「ブランドをつくる上で一番大切なのは、技術を活かすことではなく、より良い未来をつくるための困り事を探してそれを解決すること」と片倉さんは言う。

「物を開発しようとすると、どうしても自分たちの得意な技術に頼って、そこを起点に発想してしまいます。それだと『刺繍を使ってクッションカバーをつくろう』とかそういう話になってしまう」

「世の中に必要だという役割が見えてくると、今はできなくても、できるようになったら喜んでくれる人がいると思える。それが諦めない理由になる。だから技術開発をするんです。得意なことから考えていたらこの商品は生まれませんでした」

緻密に制作されたデータに基づき、機械刺繍により糸玉が作られていく。その日の気温や湿度によって、職人が細かく調整を加えながら仕上げる。

伝統の先へ、続く挑戦

2010年に始まったトリプル・オゥは、各方面で高い評価を得て販路を拡大、スタッフも11人まで増えている。チームを率いるマネージャーとして、片倉さんが大切にしていることが4つあるという。それは「顧客価値、収益性、社員の成長、地域貢献」だ。

「どれも欠けずに成立することが重要です。笠盛としても200年企業を目指したい。そのためにも、この土地の近隣の方々に誇りだと思ってもらえる事業をしないといけないと考えています」

自らの歩みも挑戦の連続だった片倉さんは、社員の挑戦も積極的に後押ししたいと考えている。挑戦の過程では当然失敗も起こりうるが、失敗のことを社内では「ダイヤの原石」と呼んでいるという。

「原石がいくつか集まると成功への道筋が見えてくる。できないという答えも、全通りやってみなければ出せない。笠盛の過去の歴史を見ると、挑戦やチャレンジという言葉がたくさん出てくるんですよ。挑戦とワクワクドキドキという2つはもうずっと昔からこの会社に根付いているDNA、風土みたいなものだと思います」

挑戦を促す社風はしっかりと息づいていて、若手社員の牛込圭哉さんが開発を担当した刺繍マスク「FACEDRESS」はクラウドファンディングで大成功を収め、2021年の「グッドデザインぐんま」で大賞を受賞した。

笠盛という会社は、変化することを良しとしてきたからこそ長く続いてきたという印象も受ける。だとすれば、変化を恐れず大胆に決断し行動してきた片倉さんがここに導かれ、力を存分に発揮しているのも自然なことのように思える。

「普通のブランドはディレクターの価値観によって作られます。そうではなく、関わる人によって自由に新しいクリエイションが生まれるようなブランドにしたい。それと、関わる人全てにやさしいブランドでありたいと思っています」と片倉さんは言う。その先には200年企業の姿が見えてくる。 

ライター:荻原貴男(REBEL BOOKS)・西涼子、撮影:市根井 直規(合同会社ユザメ

登壇者

片倉 洋一 株式会社笠盛 トリプル・オゥ事業部マネージャー

神奈川県秦野市生まれ。イギリスでテキスタイルデザインを学び、スイスのテキスタイルメーカーやパリのオートクチュールでの仕事を経て帰国。2005年、刺繍業を営む株式会社笠盛に入社。2010年、刺繍アクセサリーの新ブランド『OOO(トリプル・オゥ)』を立ち上げる。